人生とは、「高橋維新とも生きていくこと」である。

「弁護士ってアレでしょ? たいして仕事も無い割に、暇な時間つかってお笑いの感想書いてお金もらえるんでしょ? いーーーーい仕事だなーーーーー!」

ゲスニックマガジン編集者の血が騒いでなりません。

NHK「LIFE!」でわかるウッチャンナンチャン内村がテレビでコントをやってはイケない理由 | メディアゴン(MediaGong)」という、衝撃的な記事が公開されました。お笑い童貞、高橋維新さんの最新作です。

一部引用などというのは、こちらの編集が混じってフェアでないですから、読みづらさもあえて飲み込み、全文引用しながら反論します。

またこれで「高橋維新」流れでブログのアクセス数が増えてしまうのだけが悔しいです。KREVA論とかのほうが面白いですよー!

素人好きの童貞弁護士

2015年9月3日、内村光良(ウッチャンナンチャン)をメインに据えたNHKのコント番組「LIFE!~人生に捧げるコント~」(以下「LIFE」)が放送された。

現在、地上波から「コント番組」と銘打ったコント番組はなくなりつつある(http://mediagong.jp/?p=1028)。現在コント番組ということを前面に出している「コント番組」をやっているのは、この内村のほかには、志村けんぐらいのものである。

なぜコント番組が少なくなったか。

端的に言えば、おもしろくないからである。もっと正確な言い方をすると、「コント番組」より確実におもしろいものが他にあるからである。

なかなか魅力的な書き出しです。フリとして機能しています。

コント番組というコンセプト自体が内包するジレンマとして、「この番組はコント番組です」と銘打ってしまうと、視聴者が「今から画面の中でおもしろいことが起こるのだな」と期待してしまい、ハードルが上がってしまうというものがある。

これを回避するためのひとつの手段が、コント番組であることを隠してコントを行う「ドキュメンタリーコント」である。このドキュメンタリーコントという手法は、「めちゃイケ」や「ガキ使」に典型的に見られる(http://mediagong.jp/?p=1028)。

ここまでに述べたのはコント番組全てに共通する問題だが、内村のコント番組には内村のコント番組特有の問題点がある。

台本がガチガチ過ぎる(ように見える)のである。

ここから、「高橋維新節」とでも言うべきか、ものすごい主張が始まりました。

まず、「コントはハードルが高い」って話です。視聴者の期待がハードルを上げるなら、全てのバラエティはハードルが高いのではないでしょうか。

高橋維新さんがいつもご視聴なさってる「めちゃイケ」は、ハードルが低いのでしょうか。ならば、なぜ高橋維新さんはいつも一所懸命に「めちゃイケ」をご批判されていらっしゃるのでしょうか。

歩みよれば、高橋維新さんは「番組に対するハードルではない。ボケに対するハードルなのだ。ボケが起きても「ああ、これは台本上のボケなんだな」となるからハードルが上がるのである」と仰られるでしょう。

ところで。そもそも「ハードルが上がる」ことの何が悪いのでしょうか。下がりきったハードルを軽く飛び越える番組を、高橋維新さんはご視聴されたいのですか。

「ヤラセ(台本)はイヤだ。ガチがいい。少なくともヤラセ(台本)だとバレないようにしてほしい」というのは、「AV女優はイヤだ。素人女子高生がいい。少なくともAV女優だとバレないようにウブでいてほしい」というのと同じように聞こえます(まあ、少しは気持ちわかるぜ、維新ちゃん)。

でも、お笑いの批評を書くような方がこのレベルって、いくらなんでも酷くないですか? 

薄すぎる「緊張と緩和」

内村は、芝居が巧い。演技力が高い。元は演劇の修業をしていただけあって、本職の役者に匹敵するほどに巧い。だから、台本を忠実に守れる。監督や脚本家の要求を過不足なくこなすことができる。コントにかける姿勢も真摯であるため、台詞も一字一句正確に覚える。

「芸人」と呼ばれるジャンルの演者は、演技力や芝居に対する真面目さの振れ幅が大きく、内村ほど芝居が巧い人(宮迫博之・岡村隆史・田中直樹・塚地武雅など)もいれば、そこまででない人もいる。内村ほど真剣に台詞を覚える人もいれば、そうでない人もいる。そのため、台本通りの演技が求められるシリアスな芝居では、人を選ぶことになる。

しかし、コントのようなお笑いの芝居においては、台本を忠実に守れること、台本を忠実に守ることは、逆に弊害を生む。台本を忠実に守るということは、逆の見方をすると台本から一歩も外に出ないということなので、台本がつまらなかった場合はどうにもならない。

高橋維新さんの大好きな「めちゃイケ」は、「アメトーーク」は、台本がつまらなくてもどうにかなっているんでしょうか。

トチリやカミからくる笑いも起きなくなる。これらの笑いは、台本が実現された場合の「狙い通り」の笑いとは種類の違う笑いであり、アクセントになるのだが、台本が守られるとこの「アクセント」が皆無になるので、笑いも一本調子になる。結果、見ている方も飽きやすい。

また、台本の台詞が忠実に守られた状態で劇が展開すると、緊張感が生じてしまう。笑いにおいて緊張は大敵であり、緊張それ自体はフリの役割しか果たさない。

「緊張と緩和」理論からも分かる通り、その後「緩和」というボケが来ないと笑いは起きないのであるが、台本や台詞がよどみなく進行すると、緊張しっぱなしになってしまうのである。無論、台本で緩和を足しておく手段もあるが、本当に起きたハプニングよりは予定調和感が生じるのは否めない。台本が守られたコントは、笑いにおける「奇襲」や「意外性」をも減退させるのである。演者たちにはもっとリラックスしている様子を見せてもらった方が、学校における友達との会話に参加しているような安心感と自然な笑いを視聴者に提供することができる。

そのような意味で、台本をガチガチに守ることは、逆説的に笑いの本質に悖る所為である。台本は、できることなら緩々の方がいいし、台本を守るよりおもしろい方向性が本番中に見えたのならそちらの方向に進んだ方がよい。

その方が、トチリやカミというアクセントの笑いも生じやすくなる。台本がつまらなかった場合でもなんとかできる。演者も「台本を守らなければ」という緊張感がなくなってリラックスするので、客もリラックスして笑いが生じやすくなる。ハプニングも起きやすい。

「悖る」という難しい言葉を使うも内容はしょーもない、というまさしく「緊張と緩和」を実践しておられます。高橋維新さんは、コントを見て一度も笑ったことがないのでしょうか。台本通りに進んだコンテンツで、お笑いにはなられなかったのでしょうか。

もし、「緊張=台本通りに進むこと」、「緩和=ハプニング」と捉えているとすれば、これほど薄いお笑い理論もありません。ただ単純に高橋維新さんがハメ撮りを愛してるだけです。

また、「トチリやカミ」をしきりに強調されておられますが、この種の笑いをコントの笑いと同列に捉えているのは、あまりに愛情が無いと思います。私は吃音の気がありますが、それで笑われても「よし、俺は笑いを取れる」とは思わないです。

というか、「客もリラックスして」って、「LIFE!」はスタジオコントですからね。リラックスも何も、って感じです。

アンタッチャブルは、漫才の台本をザックリとしか作らず、一字一句台詞を指定してはいないという。「オレたちひょうきん族」(フジテレビ・1989〜1989)にも、事前に用意するのはシチュエーションだけで、あとは明石家さんまに好き勝手に暴れてもらうというコントがあった。

「ダウンタウンのごっつええ感じ」でも、演者のアドリブに任されている部分の比重が非常に大きかった。笑いにおいては、台本という予定調和は弊害を生むことの方が多いのである。

内村にとっては、台本を守れるだけの高い演技力があったことが逆に悲劇であった。だから、内村のコントは台本を守るだけの一本調子のものになり、視聴者も離れていったのである。内村のこの高い演技力は、彼が芸人よりも役者に向いていることを示している。

もちろん、台本そのものがおもしろければそれを忠実に再現することによって大きな笑いを生み出すことは可能なのだが、そのような台本は極めて稀であるというのが実情である。リラックスした芸人たちの自由に任せた方が、おもしろいものが生まれる可能性が高いのである。

「台本を守る」=「一本調子」という論理が、やはり高橋維新さんの浅さを露呈しています。どんだけハメ撮り好きなんだ、って話です。というか、ウッチャンの魅力って「台本を守るだけ」ではなく、「台本を抑えつつ、臨機応変にも対応する」ところじゃないですか? 先日の「LIFE!」生放送では、日本代表が3−0で勝ったことに触れたり、VTR振りを女マンでやったりしていますが、どうでしょうか。

笑いが生まれる可能性が高いほうを取るあたり、高橋維新さんはリアリストなのかもしれません。しかし、その結果生まれる笑いって、明日も明後日も、来年になっても「あれは面白かったなー」って思い出せるような笑いなんでしょうか? 芸人たちの自由に任せたお笑いにそれぐらいのインパクトが出ることって、それこそ極めて稀でしょう。

今回放映された「LIFE」も、このような台本ガチガチのコントの問題点が全部出ている。演者は、主役の内村のほか、役者と、ココリコ田中・ドランクドラゴン塚地という内村に匹敵する演技派芸人で固められており、台本を忠実に守ることが志向されている。視聴者の眼前に展開されるのは「役者のコント」に過ぎず、「芸人のコント」ではない。

大しておもしろくない台本を忠実に守らされている田中や塚地を見ていると、不憫にさえなってくる。この2人は役者のみならず芸人としてのポテンシャルも高いのだから、「芸人のコント」をもっと自由にやらせてやればいいのになと思う。

笑い所で人工の笑い声を足すという演出も古臭いだけである。このような演出は、裏を返せば、作り手が「笑い所が分かりにくい」と考えているということである。自分でおもしろいと自信が持てない作品を世に出すのはいかがなものだろうか。

今回独自の試みとして、生放送で視聴者に投票をしてもらい、その結果いかんでコントの内容が変わるという部分があった。出演者がみな演技派なので、生放送の部分も収録済みの部分も芝居のクオリティが全く変わらなかったのは確かだが、元の台本が大して面白くないことに代わりはないので利点としては生かせていなかった。

田中扮するプラス車掌というキャラクターが他の演者の変なところを暴露するというコーナーもあったのだが、NHKなので民放の同種の企画と比べれば暴露内容もそれを受けた演者のリアクションも控え目だった。なので、暴露の内容を聞いて笑っている演者たちを見ても、芝居ではないかという疑念が消えなかった。

笑い声を足すことに対する不満ってのは、もう本当に時代遅れというか、じゃあ全部そうじゃないですか! 高橋維新さんに革命を起こしてほしいですよ(笑)。

あと、今回の生放送って本当に「芝居のクオリティが全く変わらなかった」ですかね? 優しすぎですよ高橋さん(笑)。むしろ、生放送に慣れてる羽鳥アナ(とウッチャン)以外は、みんな緊張しているように見えました。ファン的には、それはそれで面白かったんですが、すこしスベってる感もありましたよね?(笑・急にLIFE批判側になったりする)

「笑うこと」だけが「お笑い」なのか?

という感じで最後まで読みましたが、高橋維新さんが「芸人だらけのハプニング大会」をお好きだということはわかりました。

ザックリ言ってしまえば、高橋維新さんは「ガチ」と「ヤラセ」への耐性がちょっと足りないんじゃないか、と思います。あとは、前記事でも書きましたが、とにかく笑いのツボが少なすぎます。貪欲さが無いです。別に問題はありませんが、ライターとしては失格だと思います。

ここでやっと『LIFE!』に対する自分の視点を書いてみます。『LIFE!』肯定側の意見です。

『LIFE!』は、皮肉にも高橋維新さんのような凝り固まった「お笑い像」をほぐしていくような番組です。

これは高橋維新さんだけの問題でなく、M-1以降の、ひな壇以降の、バラエティに対するひとつのアンチでもあります。お笑いの幅が狭くなってしまったことに対するアンチです。

というのは、現代のバラエティは、普遍化(どんな番組にもお笑いの要素が入っている。たとえばトチリやカミ、ですが)と、島宇宙化(芸人と芸人好きな人にしか伝わらない、いわゆる身内感)が極端になっている。というのが私の見立てです(ここ、また別の機会に書きたいんですが、まとまらず)。

少し焦点がズレますけれど、高橋維新さんの言葉を使うならば、最近のバラエティは「ハードルの下がった笑い」と「芸人たちの自由な笑い」しかない、とも言えます。笑いの種類が限定されてきている訳です。

この状況を崩しつつある番組のひとつが、(高橋維新さんはお嫌いな言葉かと存じますが)「良質なコント」あるいは「バカ笑いするタイプじゃない笑い」を提供してくれる『LIFE!』ではないでしょうか。

違法であることをお許しください。2013年8月20日に放送された『LIFE!』シーズン1。42:00から「カッパのおじさん」というコントがあります。

これを見ても、やはり「台本ガチガチのコント」は面白くないでしょうか。泣きながらも少し笑ってしまうことは、「面白さ」のどのカテゴリ、ランクに属するのでしょうか。

こういったコンテンツは、少なくとも高橋維新さんの仰るような「下げたハードル」や「芸人の自由」でつくり上げることはできません。


LIFE!人生に捧げるコントseries-1 #2 投稿者 ainsoph1225

今見ても面白いです。やっぱり面白いですよ、コント。コント番組より面白いものなんて、そうそうないです。


あ、まだ一文だけ残っていました。

内村に才能と実力があるのは認めるが、だからこそ、テレビのコントはやらない方がいいのではないか。

うるせー! 二度とそのキーボードに触れるな!