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お詫び(でも誰に対して?)。

M-1が終わってもう3週間も経とうとしていますが、正直なところ「全部わかってた」という気持ちと「まったくわからない」という気持ちが共存したまま年末を迎えています。そんなわけで、まだ記事が書き上がっておりません。口頭ではある程度喋れると思うので、明日28日(月)21時からの「おしゃべりオムライス」の生放送をお聞きください。多分楽しいです。

USTREAM: おしゃべりオムライス

以下のコンテンツは、まだ書いている途中です。ですが、ラジオ視聴者の方がより面白く聞ければ、と思い、とりあえず公開しておきます。まあ、そういう程度の執筆・校閲レベルです(笑)。恐れ入りますが、ご容赦いただければ。

・ ・ ・ ・ ・** 「優勝は ⋯⋯、トレンディエンジェル!!!!」

今田耕司の口から優勝コンビの名が発せられたとき、とうとう、本当に、M-1に別れを告げなければならないことを私はさとりました。


THE MANZAIはM-1を殺した」というエントリを書いてから1年が経ちます。

『THE MANZAI 2014』で博多華丸・大吉に負けたトレンディエンジェル(※)が『M-1グランプリ2015』で頂点に立ったことは、私の見立てを図らずも証明し、さらにひとつの句点を与えました。

昨年同様、今年も長いので、結論から書いてしまいます。

00年代のモンスターコンテンツ『M-1グランプリ』は、自身の冬眠中に牙を抜かれ、すっかりあの頃の姿ではなくなりました。

具体的に変わったものを列挙してみましょう。松本人志や男性の声などに象徴される《権威》の消失。『THE MANZAI』によって再教育された視聴者やインサートされる審査員の笑顔によって薄められた《批評性》。煽りVTRが無くなったことによる《物語》の断絶です。

では、M-1が《権威》と《批評性》などを捨ててまで(捨てさせられてまで)得たものは何だったのか。 それは、《おもしろさ》です。

「お前、いよいよトチ狂ったか?」と思われるかもしれません。しかし、今年のM-1は上述した「らしさ」を失っても《おもしろさ》だけはあった、という感覚は共感していただけるかと思います。《権威》と《批評性》と《物語》を捨て、《おもしろさ》を得た。今大会が『THE MANZAI』とどう異なるのか、私にはわかりません。

そして、その中でトレンディエンジェルが優勝した。これはとても大きな意味を持ちます。そもそも、トレンディエンジェルは、『THE MANZAI 2014』の準優勝コンビです。私の見立てを進めるならば、博多華丸・大吉によって一度殺害された『M-1』が最後の力を振り絞って立ち上がるも、後続のトレンディエンジェルに再度殺害された、とも言えるかと思います。

今年の大会によって、私たちはもう「あの頃」の興奮や失望を味わうことができないことを痛感しました。しかし、繰り返しになりますが、これを「笑いながら痛感」しているところが重要です。「おい、あの頃のM-1を返せバカヤロウ!」と声を挙げている視聴者(ネット住民)をまだ見つけていません。

私たちは、ある種、自らこの状況を選び、納得しているのです。

---では、一体、今年のM-1は何が変わったのか? なぜ変わったのか? 今後はどうなっていくのか? ここら辺の妄想を、キーパンチできる体力のある限り、一気に書き上げていきます。もはや「お笑い批評」なんてダサすぎの極地ですから、以降は好事家との話のネタになれば。

まずは、上戸彩の話から始めましょう(おっぱいの話じゃないよ)。

「審査員」の不在

「歴代王者の皆さん、点数をお願いいたします!」と、上戸彩は審査の前に必ず言いました。 重要なのは、彼女が 「審査員」という言葉を意図的に使わなかったことです。表面的には小さな変化に感じるかもしれません。しかし、その影響はかなりデカい。

なぜなら、彼女の言葉は今年のM-1に「審査員」という存在がいないこと、つまり、 今年のM-1に《権威》が無いことを象徴するからです。では、なぜ過去のM-1には権威があったのでしょうか?

王冠が権力の象徴であるように、M-1も何かしらの象徴を持つことで権威を示していました。それは **「松本人志」**です。松本の唸る表情とそれがゆるむ瞬間、それこそがM-1に権威を与え続けていました。

しかし、今大会に松本の姿はありませんでした。松本人志の不在は、単純に審査員が1名抜けた訳ではなく、M-1が持っていた権威がまるっと消えることに繋った、と思っています(この話、ラストでもう少し展開します)。

「今田耕司が司会の特番」として生まれ変わったM-1

松本人志ら過去の審査員の代わりに審査を務めたのは、これまでのM-1の歴代王者でした。

しかし、彼らはみんな司会の今田耕司よりキャリアが若く、さらに抜きん出たカリスマ性を持ってもいません。松本人志もいなければ、松本人志の代替となる存在もいない。その結果、今年のM-1は過去以上に「今田耕司」が全面に出る大会になりました。

となれば今年が面白かったのも当たり前で、面白かったのは「今田耕司の番組」だからです。『レッドカーペット』という革命的な番組で本当に活躍したのは誰だった?

『さんまのお笑い向上委員会』という深夜の27時間テレビの焼き直しを支えているのは? 今田耕司のいる番組に「つまらない」ものはありません。

ハライチの敗退決定時の今田耕司の発言は、今年のM-1のテーマとも積極的に誤読できるような内容でした。

ハライチ澤部「今田さん⋯⋯、優しいっすね」 今田「俺の司会ね、優しさだけが売りなんだよね」

M-1を研究しきったノンスタ石田とパンブー佐藤の、審査員への同一化

このように、松本人志(島田紳助)から今田耕司へ、という流れがM-1の《権威》を無効化しました(何度も繰り返すかと思いますが、決してすべてを悲観的に見ているわけではありません。一般的に見れば今年は成功です。私が書いているのは、いわば「敗者の視点」からです)。

一方で、これはまったくの小ネタですが、ノンスタ石田とパンブー佐藤の審査コメントが大変面白かったことは記録しておいてもよいでしょう。

彼ら2人は、歴代王者の中でもM-1を研究していました。当時、きっと審査員の気持ちになりきって、どんなネタが評価されるのかを考えたことでしょう。それが現在になって、「過去の審査員(とくに上沼恵美子ですが・笑)への同一化」として現れたのは、驚きながら笑いながら唸りながら、という感じです。発言をメモっておけば、

佐藤「3組目にして、しっかりした漫才が出てきたなと思ったんですけど⋯⋯最近の若手はみんな心に闇を抱えているんでしょうか?(笑)
ただ、いろいろ伏線をを張ったものを後半に回収していくとか、構成も流石だと思ったんで、高得点になりました。」 (スーパーマラドーナに対する審査コメント)
石田「ジャルジャルって、今まで漫才しても「コント漫才師」みたいなイメージだったんですけど、完全に漫才師になってて。今日の出た組の中では一番拍手笑いも多くて、面白かったです。僕ホンマに真面目に見てます、すみません(笑)。いやでも感動しました。理想的な笑いの取り方やなと思いました」
(ジャルジャルに対する審査コメント)

というように、発言者を「上沼」とか「島田」って変えても大丈夫じゃないですか?(笑)

とくにノンスタ石田の口から「感動」という言葉が出たときは本当に驚きました(これ、共感してくれる人がいると嬉しいのですが・苦笑)。

インサートが笑顔

審査員の不在については既に書きましたが、これを更に強める演出が今年はありました(※2)。審査員の表情の抜き取り方です。つまり、ワイプに映る審査員が笑顔だったのです。

これも去年の記事から引用しますが、

2001年のM-1で特徴的なシーンがあります。フットボールアワーの漫才中にサブリミナル的に挿入された、ラサール石井のメモをとる姿です(2:39あたり)。
このシーンは、視聴者にM-1の視聴法を教育したことでしょう。
視聴者はもうバカ笑いするだけの人間ではない。どこが面白くて、どこでスベって、どこで爆発して、どこで間が悪くて、ボケとボケの間の時間はどれくらい長くて、どこのボケが独創的で、どこの手法が新しくて、どれほど会場は温まっていて、前説のくまだまさしはどれくらいウケていたのか、そのすべてを受け取りました。

M-1というのは私たち視聴者が笑うだけじゃない、そこに新しさがありました。

しかし、今年は完全に様相が違った。司会の2人はもちろん、審査員もとにかく笑う。番組としての盛り上がりを優先しすぎでは、と思うぐらいでした。

《物語》の無い、ネタ勝負の大会

審査員が消えた=《権威》が消えただけではありません。私には、M-1の《物語》も消えたように思えました。

結構驚いた演出の変更に、ネタに入る前の煽りVTRの削除がありました。

これによって、これまで嫌になる程見せられた各コンビのドラマ=《物語》が無くなりました。ふつうの視聴者は、彼らがどんなポジションの芸人なのかもわからないまま、つまりコンビの見方を紹介されないままにネタを見ました。

歴史と音楽だけがギリギリで『M-1』を支えた

というわけで、私なりに客観的に分析すれば、今年のM-1はもはや別物です。カッコつきの「M-1」ではありません。 しかし、それでももし「うわー! M-1が帰ってきた!」と思ったとするならば、それは音楽の力と、これまでの大会の歴史の再利用が素晴らしかった、しか言いようがありません。

これまでに説明したように、様々な変化があったM-1ですが、音楽だけはまったく変わっていませんでした。(※)これは、色々と変化があったM-1が「やっぱり変わっていない」と思わせるだけの力を持っていました。

また、番組のオープニング映像は、なんだかんだで感動させるだけの力を持っています。正直あそこがピークだった、という視聴者がいてもおかしくありません。

ただし、これらは今大会を全体から見渡したとき、どうしても「歴史のリサイクル」とでもいうか、「コスれるうちはコスっておこう」みたいな、あまり生産性のある要素ではなかったように思えます。

(※)CM入りのナレーションの声は、男性から女声に変わっています。かなり極論ですみませんが、私はこれもM-1の大きな変化だと思っています。なぜ銀行のATMの画面に出てくる店員が、たいていの自動音声案内の声が、必ず女性なのでしょうか。さあググろう!

M-1以上に重要なファクター

雑多ではありますが今大会の所感です。

おそらく、今年のM-1は大会史上はじめて「おもしろい」と「せつない」がミックスされた大会として記憶されることでしょう。私の見立てでは、歴史が進めば進むほど「あの2015年がキーだったな〜。M-1、ありがとう。そしてさようなら」という流れが形成されていきます。

で、ここからが本題なんですが(笑)。 「あれ? なんか去年の記事とくらべて、読み応えがないな」という方もいらっしゃるのではないか、と思います。それもそのはずで、正直なところ「M-1のことなんでどうでもいい」と思うくらいに、別のことが私は気にかかっています。

それは、松本人志、です。 2010年代も後半にさしかかる頃、彼の「死」にとうとう触れなければならないことを。その匂いをいま感じとっています。

いま、「笑いのカリスマ」は存在するのか?

これは本当に、今から10年ぐらいかけながら皆で考えていく問題だと思うんですけど、えー、うー、いー、 あー、

いまの日本って松本人志にそれほどカリスマ性を感じてません ⋯⋯よね?

上の発言がどれだけ物議をかもすものか、26歳のバカには想像もつかないのですが、切り捨てるほど的を外している想定でもないように思っています。

以下、完全なる妄想ですが(これがどれくらい面白いか、信頼できるかは、コボリの過去の発言からお察しください)、前述した「松本人志の不在によるM-1の《権威》の消失」というのは、実は順番が違っていて、「松本人志それ自体の《権威》が消失しつつあることを嗅ぎとったM-1が、自らこれを手放した」のではないか、とさえ考えています。

M-1の創設には、《権威》が絶対に必要でした。M-1はこれを1000万円という破格の賞金と松本人志という笑いのカリスマを使うことで、一夜にして他の賞レースを圧倒する《権威》を持ったことでしょう。金額の驚きは大会を続けるごとに薄れていきましがた、松本人志の権威は2010年までを振り返ってもまったく色褪せることがありませんでした。

以下、書き途中です。真っ先に、明日28日(月)21時からの「おしゃべりオムライス」の生放送でおしゃべりできれば、と思います。下記リンクよりご視聴ください(急にランディングページみたいになりましたね・笑)。

USTREAM: おしゃべりオムライス


Kobori Akira

IT業界の社会人。最近はプロレスと音楽の話題が多め。
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