英語を学習しない理由、『自我論集』
HOT97を入れてからというもの、わたしの生活の中にヒップホップがまた定着しはじめ、やっぱり普段流しておくにはこのビートが良いことを再確認しています。というのも、ヒップホップはBGMとして流すには最適で、それは歌詞を理解できないことが関係しています。
邦楽はつい歌詞に耳がひっぱられてしまい、なにか仕事を始めたとしても最後は歌詞に感動してしまったり憤慨しているのが常です。その点、洋楽であればその心配はありません。ことさら、ヒップホップ=ラップは個々人の発音になまりがあるなど、日本人が英語を簡単に聴き取れないよう、万全のセキュリティをほどこしています。
英語が得意な人はかわいそうなことに、洋楽を純粋なBGMとして扱うことはできず、同じことをしたければ、聞いたこともない名前の国の聞いたこともないアーティストの曲を聴かなければいけないのです。つくづく英語が苦手でよかったと思います。
科学というものは、厳密に定義された明確な基礎概念の上に構築すべきであるという主張が、これまで何度も繰り返されてきた。しかし実際には、いかなる科学といえども、もっとも厳密な科学といえども、このような定義によって始まるものではないのである。科学活動の本来の端緒は、むしろ現象を記述すること、そしてこの現象の記述を大きなグループに分類し、配置し、相互に関連させることにある。この最初の記述の時点から、記述する現象になんらかの抽象的な観念をあてはめることは避けがたい。
(ジークムント・フロイト著、竹田青嗣編、中山元訳、1996年、「欲動とその運命」『自我論集』、筑摩書房。)
上記は、大学時代に夢中になって読んだフロイトの『自我論集』におさめられた論文の一つ、「欲動とその運命」の書き出しの引用です。中高を理系学生として過ごしてきたわたしは、なぜかフロイトにハマって、手に入れやすい著作を買い、こんな文章にばかり接していました。こういった文書を読んでいたらカッコよく見られるだろう、という気持ちも多少あったかもしれません(誰もわたしのことを見ていなかった、ということに気付くのはだいぶ先の話です)。しかし、久しぶりに本書を開いてみると、理解できるのは本書が日本語で書かれているのだろうという程度で、フロイトの思想が全く理解できていませんでした。
とはいえ、理解できていないことを取り上げるなら、フロイトだってわたしの思想を理解していないし、お互い様です。さらにいえば、わたし自身にもわたしの思想は理解できていないので、おそらくフロイト自身もフロイトの思想を理解できずに亡くなった可能性も否定できません(無意識的に理論を構築してた、とか)。