R-1のアイデンティティ―『R-1ぐらんぷり2015』感想と批評
『R-1ぐらんぷり2015』が大盛り上がりの中、あるいは人知れず、幕を閉じました。先日、
__2015年の「R-1ぐらんぷり」は、見なくていいかもしれないなんていうエントリを書いた訳ですが、それでも賞レースらしく、面白いところも見どころも沢山ありました。
優勝は、本田圭佑のモノマネをベースに様々なシチュエーションを演じる じゅんいちダビッドソン 。1回戦は「ややスベり」のような状況ではありましたが、決勝のネタがかなりハマったことで、 ゆりあんレトリィバァ と マツモトクラブ を抑えて勝つことになりました。 結果だけを見ると、今回のR-1はかなり成功であったような気もします。
じゅんいちダビッドソンという昨年の出場者が念願の優勝を果たした。更に、ほとんどの視聴者にとって「はじめまして」な、ゆりあんレトリィバァ、マツモトクラブが世に出るチャンスを掴んだ。
ほとんどバラエティを見ない視聴者にとっても、自分みたいなバラエティを餌にして生き延びているような(笑)視聴者にとっても、それぞれが納得し楽しめるような内容だったことでしょう。
ただ、どうしても決勝前から感じていた不満/不安は拭えませんでした。お祭りに水を刺すような記事になってしまいますが、いくつか言語化したいと思います。
“制限”の無いR-1
『R-1ぐらんぷり』は、Wikipediaより概要を得ると、
ピン芸人で誰が一番おもしろいかを決める大会であり、同じ吉本主催の若手漫才師のコンクール・「M-1グランプリ」の成功に続く形で開催された。タイトルの「R」は本来落語を意味しているが、落語に限らず「とにかく面白い1人芸」を披露することがルールとなっている(古典落語以外なら基本的に何でもあり)。落語家、モノマネ芸人、漫談家・一人コント師だけでなく、普段はコンビ、グループで活動している芸人、アマチュアでも個人で参加出来る。
元々は若手ピン芸人に漫談の実力を発揮してもらおうという趣旨で行われる方針だったが、若手だけでなく芸歴の長い芸人にも門戸を開いた、原則的にオープンな大会となっている。
とありまして、結局のところ「 1人なら誰でも何やってもいい 」という、ルールと言えるのか怪しい定義のもとで成り立っています。言い換えれば、R-1には制限がありません。 制限が無いということは何を意味するかといえば、 “物語”が発生しづらい ことに尽きるでしょう。野球は「3回空振りしたアウト」になるから、2ストライクが手に汗握るものになるし、初級のホームランにも驚けるものになります。
しかし、R-1にはM-1のような「結成から10年」のような制限がありません。となれば、いつまで経っても予選には出れるし、裏を返せばいつ辞めてもいいという、ある種の「緊張感」のようなものがどうしても欠けてしまうのではないでしょうか。
※そういった意味では、R-1が本当に参照すべきはM-1ではなくTHE MANZAIであるのかもしれません。そう考えると、今の決勝進出者はあながちTHE MAZNAIらしいというか、そうじゃないとノンスタ石田は出ないよねえ…(笑)。
もう一度引用すれば、R-1は_「元々は若手ピン芸人に漫談の実力を発揮してもらおうという趣旨で行われる方針だったが、若手だけでなく芸歴の長い芸人にも門戸を開いた」大会_ でした。この思想はいきなり批判すべきものではないし、それなりに意味のあることですが、それでは視聴者がこのことをインストールしているか?
と考えたとき、答えは「否」でしょう。
「敗者復活」とは結局何なのか?
上記のようなことを書くと、次のことも少し説明できるようになります。それは、今年の「過剰な」敗者復活に対する扱いです。
各グループの始まりごとに、準決勝敗退組と中継をつなぎ、そのグループの敗者復活を1人挙げていく。そのシステムは、“物語”をまったく持つことのないR-1が必死に“物語”をつくり出そうとしているようにも見えました。
しかし、であるならば/そうでなくとしても、あの人選には些かの疑問は残ります。つまり、ここでも上記の「制限の無さ」が効いてくる訳で、なぜCOWCOW善しが選ばれたのか。「準決勝はスケジュールの問題で出れなかったけど(善しは準決勝を棄権しています。もう1人はスギちゃんですが・笑)、やっぱり面白いから選ぶしかない」ということであれば、「じゃあもういいじゃん!」と思う以前に「もしかして、敗者復活って、準決勝に出れなかった芸人が出れるようにするためのシステムなの…?」と訝しんでも仕方のないことでしょう。
つまるところ、「 敗者復活システムって、何をするためなの? 」って話です。M-1の敗者復活が何故あんなに盛り上がったかといえば、それは「敗者復活で出てくるコンビには、一瞬で視聴者が欲望を投げられるような性質があった 」からです。たとえばサンドウィッチマンが出たときの「誰だこの人!?」や、NON STYLE、パンクブーブーが出たときの「やっぱり勝ち上がってきたかー」みたいな感覚です。
COWCOW善しにファンがいないなんて言うつもりはありません。しかし、善しが出ることで「ウォー!」ってなるヤツがどれだけいるんだろうか。
一方でマツモトクラブは、全くの無名というサンドウィッチマン的な出方から、ネタの面白さもマッチして一気に優勝決定戦まで登りました。ヒューマン中村も、R-1をよく見てる視聴者であれば「お、やっぱり這い上がってきた!」と思わせるだけの、“物語”を持った芸人です。
※ちょっと逸れますが、ヒューマン中村が勝ち抜けなかったのは、正直言ってマツモトクラブの勝ちが響いたのだと思います。つまり、3グループから2グループが敗者復活からの勝ち残りだったら、「審査員何してたの?」って話になっちゃいますし(まあそうなんですけど)、いくら面白くてもゲートを開くことはできなかったのだと思います。その流れでじゅんダビが勝った、ってのがカッコいいですよね。
大会自体は結構盛り上がったが、システム面や事前準備に目を向けると、やはり反省点というか、危なっかしい箇所が多かったんじゃないか、というのが結論です。
R-1も「マーケティング」をすべきなのか?
というわけで、笑いながらも色々と文句をつけるという、現代人そのままのような行動を取ってしまいましたが(笑)、自分なりに今後のR-1に注目するなら、下の2点になります。
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R-1は自身のアイデンティティをいつ見直すのか?
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R-1はマーケティングを行うのか?
R-1は「オープンな大会」である。しかし、「オープン」は決して良い意味だけではありません。
あなたが軽い気持ちで「野球やろうぜー!」と言って、ちょうどいい面子が集まればいいが、プロ野球選手から野球観戦が趣味なだけの10〜90代の男女が3000人ほど集まったとき、なんの区別もつけずに行う草野球は楽しめるでしょうか。あまり伝わらないですかね(笑)。
つまり、13年の歴史を持っているR-1ですが、あらためて「 R-1とは何なのか? 」を考えなければならない、と思います。言い換えれば「R-1は何を目的とするのか? 」ですね。「陽の目を見てないピン芸人を発掘する」なのか、「テレビでよく見るあの芸人が、本気でピンネタを考えるとこんなに面白いよ」なのか、「たまには落語でも見てみようよ。マジックとかも面白いよ」なのか。
というわけで、「番組のコンセプトが定まってないんじゃないか」というのが10年ほど見てきたコボリの感想です(笑)。とりあえず来年も準決勝に必ず行くことは誓います。