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12月2日。 美容院の待ち時間中に『嫌われる勇気』を読む。

帰宅後ちょうど『めちゃイケ』と『IPPONグランプリ』、『さんまのお笑い向上委員会』が続けざまにやっていたので、カット野菜を鍋に放り込みつつ見る。ここ数年の『めちゃイケ』はヒール役を担い続けていたので、番組終了後になってやっとベビーフェイス化すると思っている。DVDとか発売される頃には「伝説の番組」みたいな。

『IPPONグランプリ』はいつも通り面白かった。堀内健の大喜利が見れるってだけでスゴい番組だと思う。あと最近になってやっと気づいたけれど、もはやバラエティ番組(とくにコンテスト系の)に《ドラマ》は必要とされてないのだろう。

自分でも驚いているけれど、明日が『M-1グランプリ』の決勝であることをつい先日思い出した。その頃には残念ながら別名義の活動が入っていて、人生ではじめての「どんなコンビが出るのはよく把握してない」かつ「生放送で見ない」M-1になるのだ。

これが何を意味するかは分からないけれど、自分の感情から分析するに、これが「どうでもいいなー」と思ってしまった。『にちようチャップリン』とM-1の何が違うのか、今の自分にはわからない(※翌日の日記で大きく変わりました・笑。詳しくは以下の日記を)。


12月3日。

モード・カフェ・ギャマンで週次のレビューを終えたあと、別名義のリハーサルに。自分のつくった曲をはじめて通しで歌ってもらい、やっと命が吹き込まれた。メンバに感謝を。

自分でボーカルをとらない曲をつくるのは久しぶりだったが、「思い通りにならない」感じも楽しめている自分を俯瞰して、なかなか悪くないじゃないか自分、と思った。

帰宅後、ファミマで買ったカルボナーラを食べながら『M-1グランプリ』を見る。例年にない感動的な展開で、ちょこちょこ泣いてしまいそうなシーンがあった。

これを認めるのはツラいけれど成長のためとして書こう。もう自分のようなM-1の見方は古すぎる。M-1グランプリそのものは歴史を持つし、それをずっと見ている我々(20代後半以上)も同じ歩みを辿っているわけだが、視聴者はそれが全てではない。そしてそういう観点から言うと、M-1の視聴者はすでに一周した(そして我々は「一蹴」された、とでも書きたくなる)。

M-1という「新しい漫才のルール」と、これを「攻略」しようとしたかつての芸人たち。そして今、漫才はこの壮大なドラマを超えたところで展開されている。「手数」なんて言葉は陳腐となり、お笑いはまた答えのない問いへと進んでいく。

今大会で最もチャレンジしたコンビであるジャルジャルを見れば、まだM-1はいくらでも面白くなるのだと分かる(そして福徳のあの表情は、M-1史上でもトップを争う名シーンだ)。そして「コンビ結成15年まで」という新しいルールのうえで勝ちをもぎとったラストイヤーのとろサーモンには、ギリギリで感動が勝って落涙した(敵方は「結成10年以内のコンビが出てこそM-1だろ」という老害的批判)。

「破壊と創造」という言葉を忘れていたことを思い出した。『ドキュメンタル』のゾンビタイムよろしく、バラエティという世界では一度死んだ者は必ず復活するのだ。それは人物のみにあてはまらず番組、大会も同様のようだ。『M-1グランプリ』がいま、また大きな産声を上げた。


Kobori Akira

IT業界の社会人。最近はプロレスと音楽の話題が多め。
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