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歓喜の瞬間 新おねえさん あうんの呼吸 テツオの数奇な運命 キスがうまいだけ 何かあったな 突き詰めると 店じまいイカ大王体操プロジェクト

毎週やっていて見逃しがちですが、「ウッチャンがコント番組をやってる」のは泣くほど嬉しいことです。

そして、やっているだけでも嬉しいんですが、人選には脱帽する限りです。

まず、ココリコ田中、ドランク塚地が面白いのは勿論。中でも、ココリコ田中はまさしく「コントをするために生まれてきた」かのような活躍ぶりで、「囲み取材」の斉藤さんは何度見ても(見れば見るほど)爆笑してしまいます。

もちろん、塚地も芸人の少ない『LIFE!』の中で、芸人であることを最大限発揮していて、大好きです。イカ大王の歌声はちょっと感動できるレベルです(しょーもない抗議で潰れてしまいましたが、そもそもブサンボマスターで彼の歌唱力は確認済、であります)。

女性陣では、石橋杏奈が見るたびに面白くなっています。また、その影響を臼田あさ美も受け、相乗効果のようなものが画面を通して伝わってきます。また、2人にはできない人物を、西田尚美がしっかりカバーしたりしていて、完璧です!

「変わらぬ関係」の西田さんは美しすぎて震える。

これまでのコント番組は、最低でも一人はブスを入れることがほとんど(つまり、ブスイジりをしている訳)でした。

しかし、『LIFE!』はそれを回避することで、むしろより多くのキャラクタを描けています。ここ、『LIFE!』の最大の魅力であり、ウッチャンが座長を務める魅力でもあると思うんですよね。

男性陣はと言うと、星野源はヘンに気張ることなく雰囲気を維持したままコントをやっていて、それがものすごい好印象。もっとお笑いに前のめりになったり、芸人に対して負けん気を出したりするのかな、と思ったのですが。スポーツで言うところの「チームに貢献することを第一に〜」という感じがあります。言い換えれば、「星野源」自身のセルフプロデュース感が全くなくて大好きです。

また、星野源以上に輝いている(最近、すこし抑え目にはなりました)のがムロツヨシ。トークコーナーで、ムロツヨシからウッチャンに「『ガラスの喉』と言われるほど喉が弱い。どうすればいいですか?」と質問したことがあります。これにウッチャンが「役者辞めたほうがいいんじゃない?」と返したとき、全内村光良ファンがガッツポーズをカマしたことでしょう(笑)。芸人以外でウッチャンに「辞めちゃえよ!」って言われた人、見たことなかった。

---「歓喜の瞬間」 は、これぞ『LIFE!』という、誰も傷つかないコント。イカ大王でも見ることができますが、塚っちゃんの動きはやっぱり面白い。言い方も面白いし、センスもあるし、最強の芸人の一人。後半、「ちょっとアドリブ入れてる?」と思うような、味方とのパフォーマンスのズレもクスクスくる。

ウッチャン、組体操は下に入るんだ。 「新おねえさん」 は、点検スペシャルのせいで ノソノソ(ウッチャン)の足元しか見れないですが(笑)、臼田あさ美の良いところをちゃんと見れる、好きなコントです。キツい顔をさせるなら、絶対に臼田あさ美だと思うんですよね。性癖の問題かもしれないですが(笑)。

「キスがうまいだけ」 も、臼田あさ美が石橋杏奈を喰った印象。あの「私も一度体験してみたい」顔は、臼田様がやることでグッと来ました。

「あうんの呼吸」 は、大喜利のようなコントで、どう転んでも自分は笑ってます。「カルボうどん」は、なるほどなー、って感じ。

「テツオの数奇な運命」

は、いよいよシリーズ化を狙ってくるような兆し。ただ、「鉄仮面を被ってる男」っていう初期設定が、自分の中でまだ笑いに変わってないんですよね。自分が追いついていないうちに、どんどん新キャラが出てきそう。

「何かあったな」

は、社会派コント。あの空気感は現在のウッチャンだからこそ出せる。地味に笑ったのが、番組のごまかし方。「コメンテーターの似顔絵が届く」って。

「突き詰めると」

は、妄想系のおしゃべりコントでしょうか。ただ、最初の問題提起(給食室から火事が起きるのは、給食のおばちゃんに失礼じゃないか)は割と納得してしまいました(笑)。さまぁ〜ずファンとしては、ここに大竹が入ったらどうなるんだろう、と気にしがち。

「店じまい」

は、最後の「思い出があるの、こっち側だけだったのかな」という星野源のセリフが要らなかったんじゃないかな、とも思いつつ。それにしても、メシ絡みのコントが多いように感じるのは気のせいでしょうか。LIFE的な笑いが起こりやすい設定なのかしら。


高橋維新さんのDIS記事が一番の人気記事になってしまって、焦っています。一応、もっと良い記事もあると思うのですが(たとえば音楽好きなら全員にこちらの記事はチェックしてほしい)、やっぱり「レコメンド」より「ディス」のほうがお好きですよね(笑)。

それはともかく。miwaをレコメンドする記事を書いているときに、「最近のJ-POPをちゃんと追ってなかったなー」と思いまして、久しぶりにオリコンをチェックしたら、これがなかなか面白かったのです。

アイドルと声優だけがCDを売るようになって、もう10年ほどは経つでしょうか。たとえば今週(2015年7月13〜19日)のシングル売上のトップ3は、NMB48、μ’s、DOBERMAN INFINITYと、見事に「女性アイドル、声優、男性アイドル」となっています。

昔は「オリコンで1位を取るからには、なんだかんだで魅力のある曲なのだ」と言われていましたが、そろそろそういった性善説も通用しないことは明らかです(DOBERMAN INFINITYの曲はちょっと良かった)。

とはいえ、それが極端に「オリコンは終わった」とか「CDは死んだ」ともならないところは日本の侘び寂びってやつでしょうか(笑)。具体的に言うと、

オリコン11位から一気に面白くなります。 以下、ダラダラと紹介してみましょう。

たとえば今週の11位は、この日記のテーゼを体現するかのようなアーティストです。 SKY-HI の「Seaside Bound」

EDM(とドラムン)を上手く処理したトラックに、ビジュアル系からインスパイアされているようなSKY-HIらしいラップが乗っています。低音を削りとったスネアが気持ち良い。SKY-HIのラップって、最初はILMARIのような「発音良い」系だと思っていたのですが、実際のところはクセの強い、口が面白い開き方をするような歌唱じゃないですか?

13位には Little Glee Monster「人生は一度きり/ガオガオ・オールスター」も入っています。着実に「そっちじゃなかった!」って方向に突っ走っていますが、デビューシングルは本当に良かったのでまだまだ要チェック。

18位は Ken Yokoyama の「I Won’t Turn Off My Radio」。こういうロックは大体嫌いですが、これはメロディがちょっとかわいくて好き。

20位は 大森靖子 の「マジックミラー」。曲はどんどん興味無い方向に進んでいますが、歌詞はやっぱり面白い。「あたしアナウンサーになれない 」から始まるとか、ちょっと才能ありすぎますよね。 25位は ミライスカート のデビュー曲「COSMOsSPLASH」。この「もうお腹いっぱいだよ!」のagehaspring感と5万ぐらいで撮影したようなMVが相俟って、なんとも言えない出来になっています。「ウラ笑い」する好事家ならハマるかもしれません。

50位はAldiousの「die for you/Dearly/Believe Myself」。2015年にもこういうガールズバンドがいて安心します。どうか良い曲を作って売れてほしい。

ちなみに、実はウソも吐いています。 夢見るアドレセンス 「サマーヌード・アドレセンス」はオリコン7位ですが、十分に面白さのある曲でした。本作は「サマーヌード」をリコンストラクションしているのですが、メロディの引用具合がちょうど良い。あと、歌詞が素晴らしいですよね。「すべてを全部」とか、ちょっとさまぁ〜ず感がある(笑)。

僕ら今 はしゃすぎてる そんなふりして 新しい誰かと 手と手をつないで 夏がはじまる 大好きだった君のことさえ 忘れちゃうんだ もう二度と戻れない
あの日の僕らのすべてを 全部 君のせいにして

最後に、これは本音と冗談キッチリ半分ずつで書きますが。なぜか Takamiy a.k.a 高見沢俊彦(from THE ALFEE)の「誘惑の太陽」が一番の名曲だったりする。日本の陽射しというのは、我々を狂わす程度には強いことがよく分かります。


レコメン度:★★★☆☆

miwa『ONENESS』は、一部のファンだけが楽しむには、ちょっともったいないアルバムです。

全体的に軽さはある。しかし…

「音楽好きあるある」として、TSUTAYA渋谷店がレンタル半額を行う度に50枚ちかくアルバムを借りる、というのがあります。

ご多分に漏れず、コボリも同じタイプでして、前回のレンタルではmiwaを入れていました。何を隠そう、 「Faraway」 がものすごい好きだったんです。

(ギターがmiwaを弾いてもいいぐらいの、同じサイズ感。) 前作の3rdアルバム 『Delight』 もちょっと良かったんですよね。miwa自身、このアルバムに収録されている 「ヒカリへ」 で売れました。渋谷の複合商業施設がオープンした頃の曲です(関係ないけど)。 (ルックスで勝負しやがって!)

そんなmiwaさんの音楽が持っている一番の魅力は、 「シンガーソングライター」でありながら「品のある雑食性」や「適度な拘りのなさ」を持っている ところです。

たとえば、miwaの曲はギターやバンドの音だけで作られているものは少なく、打ち込みも多く入っています。また、「シンガーソングライター」でありつつも、『ONENESS』の作曲は_Naoki-T_ (※1)との曲作である場合がほとんどです。さらには、今や当たり前ですが、ボーカル補正もガッツリあります。

これらを悪い見方から批評すれば、「ロック感が無い」とか「シンガーソングライターとしての矜持が感じられない」となります。また、「打ち込み(≒EDM)として物足りない」という感想もあるでしょう。

しかし、本作『ONENESS』ではそれらが全て 「ポップで素晴らしい!」 の一言に集約されます。 (※1)Naoki-Tは、ケツメイシの『さくら』以降のアレンジや、FUNKY MONKEY BABYSのアレンジを手がけているトラックメイカーです。って聞くと、「ああなるほどねー」というお友達もいるはず。この人、とにかく夏の曲が上手い!(笑)

ボーカルの「弱さ」を引き立てる中低域の使い方に脱帽

しかし、何故「ポップ」だと感じるのでしょうか。それはmiwa自身のボーカルの 「弱さ」 にある、とコボリは考えています。

miwaのファンクラブは「yaneura-no-neko」と言うらしい。憎さ余って可愛さ百倍。

控えめに言って、miwaは声量のある力強いボーカルでは全くありません。反対に、少しでも風が吹いたらかき消されてしまいそうな声です。正直、ファーストインプレッションは笑ったのを覚えています。

しかし、欠点もあるけれど旨みのある食材であれば、大事なのはどう料理するかです。この点で、Naoki-Tは素晴らしい料理人でした。miwaの「可愛さ」や「誠実さ/真っ直ぐさ(miwaはビブラートをあまり強くかけません)」がちゃんと分かるようなプロデュースをしました。

とくに関心したのは、 中低域(ここでは300〜700kHzあたり)の音の使い方 です。この音域は、「パワー」とか「力強さ」みたいな印象に関わり、人間の声はこの音域をたくさん含んでいます。

たとえば想像上のロック音楽は、この音域に全部の楽器が入っていてパワーを生み出すような印象があります。たまに膨張して聴きづらいときもあるほどです。

で、miwaの音楽は、 この音域を出来る限りボーカルに割いている ように聴こえるんです。他の楽器がこのスペースに入ったら、miwaの声の良さはすぐに消えてしまうから。

逆に言うと、ボーカル以外は中低域を削ることになるので、それがmiwaの音楽につきまとう「軽さ」の原因でもあると思います。たとえば、ラッパの音を生音にしたら、ラッパがmiwaに勝つ可能性があります。それならシンセでやったほうが正解です。

そうして全面に出てきたmiwaのボーカルが、楽曲を、アルバム全体を、ポップに華やぐものにしているのだと感じました。

けっきょく、可愛い。

という感じで、意外とmiwaが良いよ、という話でした。ちなみに、『ONENESS』の推し曲は「Faraway」や「恋の予感」。アルバム曲で言うと、「フィロソフィー」、「super heroine」です。 とくに「super heroine」は、 曲こそ退屈 ですが、安室ちゃんの「Baby Don’t Cry」に近いような感動がありました。アイドル的扱いを受けつつも、こういう曲を書けるmiwaさんが好きです。 あと、飯窪さんに似てて可愛い。

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モー娘。やJuice=Juiceの新曲をyoutubeで視聴した。モー娘。のほうは判断保留として、Juice=Juiceはかなり良い。最近のシングルが響かなかったので食指が動かなくなってきたが、やっぱりちゃんとアルバムは確保しておこう。

ちなみに、モー娘。新規メンバーの羽賀ちゃんのボーカルはとても心地良く聴こえた。音程はよくわからないが、自分でもそう歌うだろうなあ、みたいな共感値が高い。これはJuice=Juiceのさゆきちゃんも同じ。

あと、最近はやっとSURFACEのベストアルバムを借りることができて、よく聴いている。こういうバンド、今少ないよなあ。BRADIOはそこを埋めてくれる、最近のお気に入り。

アニメのタイアップをしてるのを先に知っていたら無視していた けれど、そういう偏見はやっぱり損だということ(でも辞めないと思う)。

今日は3つぐらいテレビを観ていた。

ENGEIグランドスラム(7/12放送)

前回の第1回は「何らかの大会で優勝した芸人のネタを再放送する」というだけの、正直に言えば面白さの欠片も無い番組だったが、第2回にあたる今回は控えめに言ってもメッチャ面白かった。中でも、渡辺直美のビヨンセは腹を抱えて笑った。

面白い脚! アーカイブは「ENGEI グランドスラム 第2弾 -笑いまみれ・はなこば日記」を参照させていただくとして、この中に「タカアンドトシ」、「ますだおかだ」、「テツandトモ」、「海原やすよ・ともこ」あたりが入っているのは本当に良かった。最近のフジテレビは、楽しいことを楽しいままに出すのは上手い、と思っている。下手なドキュメンタリー路線やスポーツ路線に行かず、こうやって素直に楽しめる番組を作ってくれれば言うこと無い。

にしても、テツandトモ凄かったなー。一度生で観たくなってしまった。

しくじり先生(7/15放送。前田由紀、平野レミ)

元Whiteberryの前田由紀が、アイドル的扱いを受けていたバンドを捨て、いわゆる「バンドマン/アーティスト」として活動するも上手くいかなかった話。一応、自分も音楽をやっているので(稼いでいないので趣味レベルですが)、彼女の話はよく共感できるし、最後のオチは結構感動できる。

しかし、それ以上に切実だったのは、 彼女がシンガーソングライターとしてあまりに才能や実力が無いことだった。 歌声こそ特徴的(ただし、それもキャラクタの範囲内だ)ではあるが、そこで歌われるメロディと歌詞は全く心に響かなかった。だからこそ、何年もWhiteberryと戦い、オリジナリティを獲得しようともがいていたのだろう、とも思う。切なく、残酷な感情を頂いた。そして、それは俺も同じだ。

まあ、「お前の作っているラップもどきの玩具みたいな曲はどうなんだ?

個性的に見えるようにするばかり考えて作られたそれは、誰かの心に響くものなのか?」と問われてもアンサーはもう決まっている。うるせぇ

平野レミはいつも通り大好きだ。芸人と絡んでるのはあまり見なかったので、春日役にされたり、吉村(澤部かな?)に「キャシーだ!」とツッコまれていたのは笑った。

ナカイの窓(7/15放送。俳優芸人)

結局、「俳優芸人」なんてどうでもよくて、つまるところ「 <俳優>で<芸人>の中居正広 」についての回だった。

「バラエティが一番難しい」、「バラエティのほうが芝居。キャラに入ってる」と毎度のように貴重な発言をバンバン出す中居くん。これはあとでまとめ直してもいいぐらい。ちなみに、アンジャッシュ児島が中居くんに「歌下手だろ」とツッコんでいたのは驚いた。そんなにイケる!?


先週、父方の祖父が亡くなった。ウェブ上では記録として。本当に大事なことは、身体が忘れない。


89年生まれの私にとって、「インターネットに接続する」というのは「ヤフーに接続する」という意味と同じでして、ほぼ反射的にヤフーのトップニュースをチェックするのが日常になっています。

一応大人なので経済面あたりもチェックはするのですが、なんだかんだで見てしまうのがエンタメで(笑)、「アンジェリカ、本当は良いヤツだったんだ!」とか「50セント破産だって!ガハハ!」とか、品の無い毎日を送っていると、ときどきぶつかるのが「高橋維新 」さんという弁護士の方の記事です。

DJに興味がない濱口優がDJになりきってカッコつける岡村隆史をバカにする「めちゃイケ」の企画は中途半端」、「<薄毛芸人を笑う「アメトーーク」は差別か>病気や障害でさえ本人が許容すれば「笑われること」は許される」などのタイトルから、「ああ、読む価値も無いタイプのやつかー」とは分かっているのですが、やはり読んでしまうのが愚人の性。そして現在、こんな記事を書いてしまっております。

『ENGEIグランドスラム』第1回への批判への批判

この高橋さんという方は「メディアゴン(MediaGong) |メディアニュースとメディア批評」という「メディア批評・メディア評論に特化したメディア専門家によるメディアニュースサイト」に在籍されている方で、87年生まれの少し年上です。バラエティ番組を中心にいろいろな批評を書いています。

で、このエントリで扱いたいのは『ENGEIグランドスラム』の批評です。まず、第1回の批評として「<フジテレビ「ENGEIグランドスラム」の無駄遣い>なぜ「ナインティナイン」は漫才をやらないのか?」というレビューをしています。

しかし、ここでの主張は自分にとって全て的外れにしか感じず、上述の通り、ヤフーからアクセスできる記事であることから、「もしかして、バラエティ批評で一番読まれてるのがこれなのでは・・? 」と震え上がっています。たとえば、第1回の記事では、

芸人のネタの部分は、ほとんど編集をしていない「撮って出し」の状態だった。これでは、生放送で全部が丸のままお茶の間に流れる「THE MANZAI」や「キングオブコント」と一緒である。しかし、 生放送ではない形でやるからには、編集をしてほしい。
そして、編集をすること前提で、番組側が一緒になって事前に芸人のネタをブラッシュアップしてほしい。

と書いており、『ENGEI〜』のネタを『めちゃイケ』の「笑わず嫌い王決定戦」のようにすべきだ、という主張があります。これだけで既に赤信号が灯るのですが、この2つの企画は全く異なる性質のものです

たとえば、「笑わず〜」が「まだ売れてない芸人」を扱うのに対し、『ENGEI〜』はすでに一定の地位を築いた芸人が出てきます。「笑わず〜」が「笑えない芸人が一組いる」という前提を持っているのに対し、『ENGEI〜』は「たくさん笑いをとってきた芸人が出てくる」という前提があります。

その結果、どのような相違点があるかというと、それは _「視聴者の安心感」_のようなものです。「笑わず〜」に出てくる芸人は、そのネタだけに全てを任せることは難しい。むしろ「笑えない芸人がいる」という企画の中にネタを組み込むことで相乗効果が生まれる。

しかし、『ENGEI〜』は純粋に「もうネタをやらなくてもいいような芸人の(新作)ネタが見れる」というのが第一のコンセプトにあります。よって、

例えば、「めちゃイケ」ではよくやるが、ギャグがすべったときに大きく「?」の字幕を入れるとか、お客さんが引いてしまうようなことをやってしまったときに効果音と共に大きく「×」の字幕を入れるとかが、フォローになる。

こんな事したら、芸人に失礼である以前に、番組として成立しません。そして、ネタを重視する番組だからこそ、

ネタ終わりでは、見ていたナイナイと芸人とをガッツリ絡ませる。[…]フリートークに客を入れると芸人がヘンに萎縮してしまう。

こんなことやってる映像は全く想像できません。というか、「 フリートークに客を入れると芸人がヘンに萎縮してしまう」ってどういうことだよ・・。高橋さん、弁護士としての仕事に集中なさったほうが良いと思います。

ついでに、「ナイナイを司会に置く意味」というのは、あのクラスを芸人を仕切る(紹介する)ときに適切なのがナイナイだからだと思いますし、ナイナイもそれを分かって、意図的にベーシックなコメントを挟んでいます。

『ENGEIグランドスラム』第2回への批判への批判

第1回の批評に対して特に反応が無かったのでしょう。高橋さんは気を大きくされて、先日放送された第2回に批評として「<フジ「ENGEIグランドスラム」>ナイナイはMCとしての仕事が「あの程度」ならネタをやるべきだ」という記事をアップしました。

で、この記事が結果的にこのエントリの発火装置として機能した訳ですが、

前回の放映につき筆者が指摘した問題点(フジテレビ「ENGEIグランドスラム」の無駄遣い
http://mediagong.jp/?p=9977)は以下の6点である。 1.既出ネタの使い回しが多い 2.ナインティナインがネタをやっていない
3.ナインティナインが芸人と絡まず、合間合間のコメントもほとんど使われていないので、司会としている意味がない
4.観客が入っている(ので収録の終了時間を配慮する必要があり、ナインティナインと長いこと絡ませることができない)
5.ネタについて番組やスタッフが事前に口を出してブラッシュアップしている形跡がない 6.芸人のネタ部分はほとんど編集されておらず、垂れ流しになっている
今回、多少なりとも改善があったのは1.ぐらいなので、前回からほとんど進歩がない。9月に第3回の放送が決まっているということなので、今のままである程度数字がとれているのだろうが、
ここに書いてあることを全て改善すれば確実におもしろくなる のだから、次はなんとかしてほしい。

と、「お、マジか! じゃあやってみようぜ! 絶対に面白くなるんだよな?」とアツくなってしまうのが私の悪い癖(「杉下右京」風に)。そして、暴走は止まらず、

テレビは、視聴者を喜ばすためのものであり、プロの芸人も客を楽しませるための存在である。決してテメエの好きなことができる媒体ではないのである。客を楽しませるためだったら、一芸人の作家性などクソ喰らえである。

文章自体は正論ながら、「えっと、そういう葛藤を乗り越えた芸人のネタが見れるのが『ENGEIグランドスラム』なのでは?

『作家性』という言葉の意味をもう少し深く考えられたほうがよろしいのでは?」と感じてしまいます。テレビマンや、いや、高橋さんご本人には作家性は無いのでしょうか?

良いように解釈すれば、高橋さんは「一人で作るより、多くのプロが考えたほうが面白くなるよ」と言いたいのだと思います。しかし、『ENGEI〜』は「売れてる芸人が考えたネタ」を見せる番組であり、視聴者もそれを望んでいます。番組やプロデューサーの「作家性」こそ、この番組には不要です。

この点は高橋さんに対する批判以上に強調しておきたいですが、 _『ENGEI〜』ほどネタをちゃんと見せてくれる番組は現在ありません。_これを『M-1』や『THEMANZAi』のようなコンテスト形式(視聴者が真面目にネタを批評する形式)にしたり、ネタ中にテロップを入れて笑いどころを番組側が作ったりするなどの工夫はもちろん可能です。しかし、そういった工夫をせず、番組の色を全く出さなかったことが『ENGEI〜』の素晴らしさであり、逆説的に制作側の熱意を感じます。

高橋さんの一番ヒドいところは「 俺はバラエティの裏側も分かってるんだぜ。笑いを知ってるぜ」という童貞のような権威を持ったまま文章を書き殴っているところです。そして、あまりに高橋さんご本人の「笑いのツボ」が狭すぎることです。おそらく、単純にバラエティがそれほど好きではないんだと思います。

とりあえず、『ENGEIグランドスラム』に対して「番組側が一緒になって事前に芸人のネタをブラッシュアップしてほしい」と書いているように、高橋さんもウェブ編集者と一緒に記事をブラッシュアップする必要があるかと思います。

気ままな批判への気ままな批判

以上が、高橋さんに対する批判です。個人的には、お笑いに対する愛情が全く感じられない文章にもイラつくのですが、それは本当に個人的な理由です。あとは、好き勝手書いている高橋さんに合わせて、自分も好き勝手にコメントしてスッキリして仕舞いに。

【2】出場者寸評 2.チュートリアル いいんじゃない?
おもしろかったので特に文句はない。福田は芸無しでテレビでは扱いにくい芸人なのだが、それはネタへの文句ではない。

「おもしろかった」が「文句はない」に繋がるなら、この人が褒めてくれるレベルってどれほどなんだよ!

あと、福田さんはな、MotoGPのコメンテーターとしてイキイキとされてるんだ!

4.テツandトモ えらく営業慣れしている感じは伝わってくるが、
動きで笑いをとるのは歳をとると肉体的にも辛くなるし、見ている方としても精神的に辛くなる
ので、いつか新しいのを見つけた方がいいと思う。「笑わず嫌い」の時みたいに、同じ動きを強みとしている岡村と絡めば絶対におもしろくなるのに、それができていないのがこの番組の問題なのである。
3.ますだおかだ なんというか、全体的にしょうもなかった。 筆者は、増田がこのコンビのボケだというのは初めて知った
のだが、岡田のスベリキャラの方がテレビでは定着しているから、増田がボケているのを見るとなんか無理している感じがして痛々しい。 […] 8.シソンヌ
見たことある。 しかし、いいと思う。

高橋さんのご自宅には、最近テレビが導入されたんだろうな。

9.トレンディエンジェル
ハゲの「フラ」を押し過ぎなので、もっとこのフラが「自然」に生きる内容にしないと客の飽きが早いと思う。「トレンディエンジェル」というコンビ名からしてハゲのフラがあるからこそズレが生まれているので、コンビ名は変えるべきであるし、「お兄さん、トレンディだね。うん、トレンディエンジェル」という冒頭のギャグや「WaT小池徹平君と同じ29歳」というツカミもやめるべきである。全部実現すると全く別物のコンビになりそうだけど。

全部実現すると全く別物のコンビになりそうだけど(笑)。

14.柳原可奈子 バブルを引きずっている女子をバカにする一人コント。
登場人物は、柳原と、その対面の話し相手と、もう一人フミコさんという人がいたのだが、フミコさんの存在や位置が非常に分かりにくいセットだったので、もう一台机か椅子かを置いておくべきだったと思う。
柳原の顔は、他のブスが売り物の女芸人と比べると小ぎれいなので、「勘違い発言」がマジで鼻についてしまうことがあるのが難点か。

セットに対する意見が的確なのに、なぜコントのテーマが掴めてないんだろう。

17.渡辺直美 くどい。ずっとデブのブサイクがキレのあるダンスをしているというズレ1本でゴリ押ししてくるため、こちらの飽きが早い。

うるせぇコノヤロー!

渡辺直美はブサイクじゃないし、「ずっとデブのブサイクがキレのあるダンスをしているというズレ1本でゴリ押ししてくる」って、文章だけ見ればめちゃくちゃ面白いと思うけれど。

18.海原やすよ・ともこ
スナックのママと女の子の会話みたいだった。うん、まあ、いいんじゃないかな、という感じ。セットのことを「パチンコみたい」とツッコめていたのは流石関西のベテランである。
ネタという予定調和をやるに止まらず、こういう笑いがもっと欲しいのである。

編集の件はどこにいったんだよ!


先日、HDDの掃除をしていたら、大学時代のレポートをいくつか発見した。

当時は社会科学部という、「社会学、ではないの?」とよく聞かれた学部にいたのだが、研究テーマはあまり一貫していなかった。メディア論を中心にしていたつもりだが、その根底には「自己分析」のようなものもつきまとい、つまるところ「こじらせ」と言えば可愛いが、学問を探求する人間としては少し不適当だったように思う。

そんな話はどうでもいい。以下に載せるのは、そのときのレポートだ(※1)。内容は「相対主義について」、そしてそのテーマから派生した「私は誰かを、誰かは私を理解できるか?」という、「ああ、そういうこと考える年頃だよねー!」ってやつである。少し恥ずかしいが、ここに投稿すれば、もう失くすことはないだろう。

文章は一部加筆修正しているが、21歳の頃の率直な考え方には手を加えていない(タイトルは変更した。前タイトルは「翻訳の上手な戸田奈津子はつまらない」という、ちょっとサブいタイトリングだった)。そして、26歳の私は、21歳の頃の筆者にいまだに共感している。

そして、いくつになっても、こういう事を書いたり考えたりするのが好きなんだな、と笑ってしまう。

(※1)本当はもっと面白いレポートもあるのだが、それは合作のため、共作者の許可をもらわないといけない。まあ内容は2015年現在となっては「当たり前じゃん」って内容なのだが。

はじめに

この授業中、私が最近よく考えていたことがある。 それは「極端な相対主義が行き着く先のニヒリズム」について、あるいは 「私たちは真に理解しあう事ができるかどうか」 ということだ。 本レポートでは、授業の内容を要約しつつ、上の問題について考察をしてみたいと思う。

<主観>と<客観>―20世紀までの哲学史―

私がこの授業の盛り上がりを感じたのは、デイヴィドソンの<解釈>だった。 要点を挙げれば、

「相手の信念を完全に共有できずとも、これを解釈することはできる」

というのがデイヴィドソンの主張である。私にとって、これはとても共感できた。では、彼以前の哲学がどのような道を辿ったのかをまず確認していこう。

まず、哲学は「この世界はどのように存在しているか?」という問いから始まった。哲学者は世界の起源を辿り、ある者は水が万物の根源だと主張したり、またある者は数字が万物の根源であると主張するなどした。これを「存在論的哲学」という。

この哲学にはある前提がある。それは唯一の真理が存在するということだ。つまり、今日は「万物の根源は水である」となっているが、明日になれば「万物の根源は数字である」と変わったりしないことを前提としているのだ。

しかし、誰もが納得する真理なんてそうそう無い。とくに、16,17世紀には自然科学の発達も相まって、さまざまな真理が同時に出てきたり、これまで真理と思われていたものが疑問視されるようにもなった。

この時代に一世を風靡したのが、デカルトによる認識論的転回だ。

デカルトは、哲学の問いを「世界はどのように存在するか?」でなく、「世界の存在をどのように認識しているか?」と更新した。重要なのは、この転回によって、哲学が真理ではなく真理を探す「わたし」のことを重要視する学問になったことだ。これを認識論的哲学という。

存在論的哲学と認識論的哲学の大きな違いは、「存在―」が世界を<客観>して捉えることに対し、「認識ー」は私たちが取りはずすことのできない<主観>を思考の過程に含め、主観と客観がどのように一致する/しないかを考えたことである。

このように、「認識―」は<主観>を重要な要素として取り上げた訳だが、これはまた次の転回を生むことになる。それは、内部の<主観>を外部へ表現する際に用いる言語、つまりことばについてだ。

というのも、言葉は自身の<主観>を表すための極めて私的な道具であり、これを解明しない限り、どんな言語も虚しいものになってしまう。

ゆえに言語はとても曖昧な存在だ。これを解消しようと、ラッセルは言語を極限まで記号化しようとしたし、ヴィトゲンシュタインは哲学を「言語における論理の誤解」とした上で、言語として語りうることがそのまま世界の存在と対応する(言葉で説明できないものは、そもそも存在しない)と主張した。

こうして、言語の適切さを問題とする哲学である言語論的哲学が生まれつつあった。つまり、「認識―」から出た「世界の存在をどのように認識しているか?」という問いに、「世界を認識するための言葉は、どのように用いられているか?」という問いが追加されたのである。

この「言語―」は、20世紀の英米哲学で、大きな進展を見せることになる。

他者は理解できない?―20世紀英米哲学―

クワインは、人間が言語の意味を理解して使用する過程を分析することで、必ずしも同じ意味を共有せずともコミュニケーションは成立することを発見した(根本的翻訳)。さまざまな言語は、全てがある同一の意味を持っているわけでなく、多かれ少なかれ異なる意味があり、人間は自分の持つ概念枠において正しいとする解釈を行っている。

この主張は、単なる言語についての知識にとどまらない。言語の解釈は、世界の解釈につながる。つまり、世界の解釈も複数存在し、各々が自身なりの「正しい解釈」を持っている。このようにクワインは考えたであろう。

私なりに言い変えれば、クワインは<主観>とは何であるかを徹底的に白日のもとに晒した。それは次のように言えるだろう。<主観>はひとりよがりであり、そのような<主観>を誰もが持っているのだから、私と彼/彼女の頭の中(=概念枠)は異なるのだ。だから、

私の<主観>は、彼/彼女には伝わることは無く、伝わったとしても、それは単にコミュニケーションが成立しただけのことである。

クワインの考え方は、現代においても理解されやすい考え方だろう。**私も正しいし、相手も正しい。**これは私たちが道徳として学ぶことのひとつでもある。

しかし、それは次のような悩みを一緒に連れてくる。それは、私たちは、それぞれが異なる「正しさ」を持つとき、ある同一の「正しさ」を共有することができない、という悩みだ。これが相対主義であり、ニヒリズムである。

つまり、クワインが意図していたかどうかは別として、クワインの考え方は自然と「他者を完全に理解することはできない」という絶望を運んできているように私には思えるのだ。

<解釈>による他者理解―デイヴィドソンの哲学―

そこに、デイヴィドソンが登場する。彼は師であるクワインの概念枠について、その存在を確かめることができないと主張した。そして、ある言葉に対する相手の信念について、完全にそれを共有することは出来ずとも、相手がおそらく自分と似たようなことを考えているだろう、などと<解釈>することはできると主張した。 デイヴィドソンは、これを「“ガヴァガイ”は、ウサギがいるとき、その場合に限り、真である」と表現した。

この考え方は、次の点で重要だ。 デイヴィドソン流に相手の信念を<解釈>しようとするとき、それは相手の信念の完全な共有を断念したことを表している。

つまり、必然的に「他者は、自分とは異なる考え方を持っている」ことを前提としないとならないのだ。

しかし、それは極端なニヒリズムではない。なぜなら、異なる考え方だからこそ、誰かの「正しさ」が認められることはないし、自分の「正しさ」を守ってもらうこともできない。これを、デイヴィドソンは「自らの『正しさ』が、他者の『正しさ』と同じことは有り得ない」と主張している。

「僕も貴方も正しい、だから交わることはないだろう」この考えは一見すると、至極真っ当に思える。しかし、デイヴィドソンのように、「僕も貴方も正しくはない。しかし交わることはできる」と考えたほうが適当ではないか。

この考え方によって、デイヴィドソンは相対主義の抱えるニヒリズムを解消したと主張した。

フッサールの「妥当」―おわりに―

最後に、上記の考えを補足するものとして、フッサールの<妥当>という用語を持ち出したい。

竹田青嗣は、フッサールの<妥当>について次のようにまとめている。

主観どうしの具体的な関係の外側に、客観的真理があって、それが見つけ出されるのではない。「ほんとう」は、関係の中から、関係によって創り出される。
「真理」、「ほんとう」は、それ自体として存在するのではなく、主観の間で、妥当、納得、相互了解の努力によってのみ導かれる。従って「真理」、「ほんとう」の定立は、主観-客観の「一致」の問題ではなく、主観の間で妥当を作りうるかどうかという「可能性」の問題である。
妥当を作り出す「可能性」の前提となるのは、生きた主観どうしが、生に対するポジティブな(能動的な)欲望を持っていることである。

ここで言われる<妥当>は、デイヴィドソンの唱える「解釈」とほとんど同じ意味ではないだろうか。それは、<妥当>も<解釈>も悲観的な意味で用いられていないことが大きな理由だ。仕方なく妥当(解釈)するのでなく、私たちは積極的に妥当(解釈)できるのである。

竹田は、<妥当>に対して、もうひとつ素晴らしい示唆を残している。

信念の”独我論”を破る要件はただひとつである。それはつまり、自己の信念を他のさまざまな主観のうちに投げ出して、その間で「妥当」(相互の納得)を成立させていくプロセスの有無にかかっている。

デイヴィドソンの言う「自らの『正しさ』からでしか正しいことは考えられない」という主張を発展させるなら、その「正しいこと」を他者の<解釈>に委ねることで、自らの信念が現実と整合性をもつ可能性が出てくるのだ。

これらの話は、「結局のところ、話せば分かる、ってことだよね」と、まさに<解釈>されてしまうかもしれない。もうひとつ、補足をして終わりとしよう。

デイヴィドソンは、<生きたメタファー>についても語っている。合理的な発言から逸脱しているような表現(生きたメタファー)は、世界を解釈するための新しい詩的表現であるのだ、と。

これは、自分の信念を表現するには、社会に存在するボキャブラリーだけでは表現することが出来ないことを前提としている。なるほど、私の「めっちゃ痛い」は、他者の「めっちゃ痛い」とは異なる。つまり、より高度な相互理解のためには、この<生きたメタファー>を<解釈>しあうことが不可欠なのである。

単に「話せば分かる」と思っていても、そのほとんどは実際のところ、私たちから生まれた言葉ではないことが多い。ただの記号のやりとりに終始し、私たちの<解釈>が活かされていない対話も存在する。

他者を深いレベルで<解釈>するには、私たちができる限りの<生きたメタファー>を交換させることが重要なのだ。

ときに上手く<解釈>できずともいいじゃないか。だからこそ希望が持てる。