先日、HDDの掃除をしていたら、大学時代のレポートをいくつか発見した。
当時は社会科学部という、「社会学、ではないの?」とよく聞かれた学部にいたのだが、研究テーマはあまり一貫していなかった。メディア論を中心にしていたつもりだが、その根底には「自己分析」のようなものもつきまとい、つまるところ「こじらせ」と言えば可愛いが、学問を探求する人間としては少し不適当だったように思う。
そんな話はどうでもいい。以下に載せるのは、そのときのレポートだ(※1)。内容は「相対主義について」、そしてそのテーマから派生した「私は誰かを、誰かは私を理解できるか?」という、「ああ、そういうこと考える年頃だよねー!」ってやつである。少し恥ずかしいが、ここに投稿すれば、もう失くすことはないだろう。
文章は一部加筆修正しているが、21歳の頃の率直な考え方には手を加えていない(タイトルは変更した。前タイトルは「翻訳の上手な戸田奈津子はつまらない」という、ちょっとサブいタイトリングだった)。そして、26歳の私は、21歳の頃の筆者にいまだに共感している。
そして、いくつになっても、こういう事を書いたり考えたりするのが好きなんだな、と笑ってしまう。
(※1)本当はもっと面白いレポートもあるのだが、それは合作のため、共作者の許可をもらわないといけない。まあ内容は2015年現在となっては「当たり前じゃん」って内容なのだが。
はじめに
この授業中、私が最近よく考えていたことがある。 それは「極端な相対主義が行き着く先のニヒリズム」について、あるいは 「私たちは真に理解しあう事ができるかどうか」 ということだ。 本レポートでは、授業の内容を要約しつつ、上の問題について考察をしてみたいと思う。
<主観>と<客観>―20世紀までの哲学史―
私がこの授業の盛り上がりを感じたのは、デイヴィドソンの<解釈>だった。 要点を挙げれば、
「相手の信念を完全に共有できずとも、これを解釈することはできる」
というのがデイヴィドソンの主張である。私にとって、これはとても共感できた。では、彼以前の哲学がどのような道を辿ったのかをまず確認していこう。
まず、哲学は「この世界はどのように存在しているか?」という問いから始まった。哲学者は世界の起源を辿り、ある者は水が万物の根源だと主張したり、またある者は数字が万物の根源であると主張するなどした。これを「存在論的哲学」という。
この哲学にはある前提がある。それは唯一の真理が存在するということだ。つまり、今日は「万物の根源は水である」となっているが、明日になれば「万物の根源は数字である」と変わったりしないことを前提としているのだ。
しかし、誰もが納得する真理なんてそうそう無い。とくに、16,17世紀には自然科学の発達も相まって、さまざまな真理が同時に出てきたり、これまで真理と思われていたものが疑問視されるようにもなった。
この時代に一世を風靡したのが、デカルトによる認識論的転回だ。
デカルトは、哲学の問いを「世界はどのように存在するか?」でなく、「世界の存在をどのように認識しているか?」と更新した。重要なのは、この転回によって、哲学が真理ではなく真理を探す「わたし」のことを重要視する学問になったことだ。これを認識論的哲学という。
存在論的哲学と認識論的哲学の大きな違いは、「存在―」が世界を<客観>して捉えることに対し、「認識ー」は私たちが取りはずすことのできない<主観>を思考の過程に含め、主観と客観がどのように一致する/しないかを考えたことである。
このように、「認識―」は<主観>を重要な要素として取り上げた訳だが、これはまた次の転回を生むことになる。それは、内部の<主観>を外部へ表現する際に用いる言語、つまりことばについてだ。
というのも、言葉は自身の<主観>を表すための極めて私的な道具であり、これを解明しない限り、どんな言語も虚しいものになってしまう。
ゆえに言語はとても曖昧な存在だ。これを解消しようと、ラッセルは言語を極限まで記号化しようとしたし、ヴィトゲンシュタインは哲学を「言語における論理の誤解」とした上で、言語として語りうることがそのまま世界の存在と対応する(言葉で説明できないものは、そもそも存在しない)と主張した。
こうして、言語の適切さを問題とする哲学である言語論的哲学が生まれつつあった。つまり、「認識―」から出た「世界の存在をどのように認識しているか?」という問いに、「世界を認識するための言葉は、どのように用いられているか?」という問いが追加されたのである。
この「言語―」は、20世紀の英米哲学で、大きな進展を見せることになる。
他者は理解できない?―20世紀英米哲学―
クワインは、人間が言語の意味を理解して使用する過程を分析することで、必ずしも同じ意味を共有せずともコミュニケーションは成立することを発見した(根本的翻訳)。さまざまな言語は、全てがある同一の意味を持っているわけでなく、多かれ少なかれ異なる意味があり、人間は自分の持つ概念枠において正しいとする解釈を行っている。
この主張は、単なる言語についての知識にとどまらない。言語の解釈は、世界の解釈につながる。つまり、世界の解釈も複数存在し、各々が自身なりの「正しい解釈」を持っている。このようにクワインは考えたであろう。
私なりに言い変えれば、クワインは<主観>とは何であるかを徹底的に白日のもとに晒した。それは次のように言えるだろう。<主観>はひとりよがりであり、そのような<主観>を誰もが持っているのだから、私と彼/彼女の頭の中(=概念枠)は異なるのだ。だから、
私の<主観>は、彼/彼女には伝わることは無く、伝わったとしても、それは単にコミュニケーションが成立しただけのことである。
クワインの考え方は、現代においても理解されやすい考え方だろう。**私も正しいし、相手も正しい。**これは私たちが道徳として学ぶことのひとつでもある。
しかし、それは次のような悩みを一緒に連れてくる。それは、私たちは、それぞれが異なる「正しさ」を持つとき、ある同一の「正しさ」を共有することができない、という悩みだ。これが相対主義であり、ニヒリズムである。
つまり、クワインが意図していたかどうかは別として、クワインの考え方は自然と「他者を完全に理解することはできない」という絶望を運んできているように私には思えるのだ。
<解釈>による他者理解―デイヴィドソンの哲学―
そこに、デイヴィドソンが登場する。彼は師であるクワインの概念枠について、その存在を確かめることができないと主張した。そして、ある言葉に対する相手の信念について、完全にそれを共有することは出来ずとも、相手がおそらく自分と似たようなことを考えているだろう、などと<解釈>することはできると主張した。 デイヴィドソンは、これを「“ガヴァガイ”は、ウサギがいるとき、その場合に限り、真である」と表現した。
この考え方は、次の点で重要だ。 デイヴィドソン流に相手の信念を<解釈>しようとするとき、それは相手の信念の完全な共有を断念したことを表している。
つまり、必然的に「他者は、自分とは異なる考え方を持っている」ことを前提としないとならないのだ。
しかし、それは極端なニヒリズムではない。なぜなら、異なる考え方だからこそ、誰かの「正しさ」が認められることはないし、自分の「正しさ」を守ってもらうこともできない。これを、デイヴィドソンは「自らの『正しさ』が、他者の『正しさ』と同じことは有り得ない」と主張している。
「僕も貴方も正しい、だから交わることはないだろう」この考えは一見すると、至極真っ当に思える。しかし、デイヴィドソンのように、「僕も貴方も正しくはない。しかし交わることはできる」と考えたほうが適当ではないか。
この考え方によって、デイヴィドソンは相対主義の抱えるニヒリズムを解消したと主張した。
フッサールの「妥当」―おわりに―
最後に、上記の考えを補足するものとして、フッサールの<妥当>という用語を持ち出したい。
竹田青嗣は、フッサールの<妥当>について次のようにまとめている。
主観どうしの具体的な関係の外側に、客観的真理があって、それが見つけ出されるのではない。「ほんとう」は、関係の中から、関係によって創り出される。
「真理」、「ほんとう」は、それ自体として存在するのではなく、主観の間で、妥当、納得、相互了解の努力によってのみ導かれる。従って「真理」、「ほんとう」の定立は、主観-客観の「一致」の問題ではなく、主観の間で妥当を作りうるかどうかという「可能性」の問題である。
妥当を作り出す「可能性」の前提となるのは、生きた主観どうしが、生に対するポジティブな(能動的な)欲望を持っていることである。
ここで言われる<妥当>は、デイヴィドソンの唱える「解釈」とほとんど同じ意味ではないだろうか。それは、<妥当>も<解釈>も悲観的な意味で用いられていないことが大きな理由だ。仕方なく妥当(解釈)するのでなく、私たちは積極的に妥当(解釈)できるのである。
竹田は、<妥当>に対して、もうひとつ素晴らしい示唆を残している。
信念の”独我論”を破る要件はただひとつである。それはつまり、自己の信念を他のさまざまな主観のうちに投げ出して、その間で「妥当」(相互の納得)を成立させていくプロセスの有無にかかっている。
デイヴィドソンの言う「自らの『正しさ』からでしか正しいことは考えられない」という主張を発展させるなら、その「正しいこと」を他者の<解釈>に委ねることで、自らの信念が現実と整合性をもつ可能性が出てくるのだ。
これらの話は、「結局のところ、話せば分かる、ってことだよね」と、まさに<解釈>されてしまうかもしれない。もうひとつ、補足をして終わりとしよう。
デイヴィドソンは、<生きたメタファー>についても語っている。合理的な発言から逸脱しているような表現(生きたメタファー)は、世界を解釈するための新しい詩的表現であるのだ、と。
これは、自分の信念を表現するには、社会に存在するボキャブラリーだけでは表現することが出来ないことを前提としている。なるほど、私の「めっちゃ痛い」は、他者の「めっちゃ痛い」とは異なる。つまり、より高度な相互理解のためには、この<生きたメタファー>を<解釈>しあうことが不可欠なのである。
単に「話せば分かる」と思っていても、そのほとんどは実際のところ、私たちから生まれた言葉ではないことが多い。ただの記号のやりとりに終始し、私たちの<解釈>が活かされていない対話も存在する。
他者を深いレベルで<解釈>するには、私たちができる限りの<生きたメタファー>を交換させることが重要なのだ。
ときに上手く<解釈>できずともいいじゃないか。だからこそ希望が持てる。