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並行遊び

2022/11/30

昨日は寝る前に、会社のプロダクトが使っているOSSの不具合調査をしていた。見つけて修正案も考えたタイミングで「もしかして既に修正されてる?」と気づき確認したら修正されていた。あと2ヶ月ぐらい早く見つけていたらContributeできたのに、とちょっと残念。

もともとエンジニアリング、ひいてはコードを書くのが好きだけれど、結局口先の仕事を選んでしまう。ペテンの社会人だよなあと思いながら、自分の力量を考えれば最適解だとも思う。もっと遊んで勉強しないと、ってことだ。

ちなみに上の時間は「聴漫才」を聴きながらやっていた。囲碁将棋の漫才は、いつ・なにを聴いても新鮮な驚きがある。


帰りに子どもが肉屋で唐揚げを買いたがっていたので、いっしょに買った。

最近はお金を払うのをお願いしている。ふだんはApple WatchかQRコード決済で済ましてしまっているので、こういうときは意識的にお金を使うようにしている。「お金を払わないと物が買えない」ということを教えるのがとても大変な時代だ。

並行遊びとは:並行遊びはどうして大切なの?| パンパースをふと読んだ。並行遊び、たしかにあった。「仲良く遊んでほしい」というのは親のエゴというか、空想をぶつけているだけだよなと理解した。


Qiita「つながり」でかんがえる多様性 - Qiitaという記事を投稿した。初速をみるかぎり、まったく読まれない記事だろう。ただここ最近の自分の記事のなかでは秀逸というか、もっとも読まれたらな、と思う。

「多様性」みたいなワードは、それを真正面から称賛するのも言及するのも抵抗を感じるが、Qiitaで取り上げた『マネジメント3.0』の解釈はおもしろかった。完全なる自己解釈だが、実用性の観点から多様性を見なおした感じがある。


Gatsbyのバージョンアップを進めながら、開発環境とか自分のスキルの変化を振り返った。

まず2年前はDocker環境なんて一切使ってなかった。ローカルマシンが動けばOKで、動かなくなったらそれはリポジトリを捨てるタイミングだと本気で思っていた。

それがいまはRemote Containerで開発している。しかも設定ファイルなんてショートカットキーでNodeのdevContainerを選択するだけで終わる。この2年間でDockerを多少扱えるようになったけれど、結果だけ見ればそのようなスキルがなくてもRemote Containerでサクサク開発はできる。

一方でなにかトラブルが起きたときの対応は別だ。たとえば今回はNetlify側でのデプロイで何度かトラブルがあったのだけれど、ログをちゃんと読めば何をすべきか書いてくれていて、それをひとつずつ潰したら成功できた。ちょっと前だったら、とりあえず出力されている文字列の、誤った箇所を切り抜いてググり、よくわからないQ&Aに載っているコマンドをコピペで実行してより訳が分からなくなっていたかもしれない。

ちなみに「成長しっぱなし」ってわけでもない。実際、このブログ用のリポジトリのReactのコードやGatsbyの設定ファイル、GraphQLのクエリなどは、ほとんど思い出せなかった。いちばんひどかったのはデザイン変更中のことで、文字列を中央寄せにしたいときに使うtext-alignが思い出せなかったことだ。仕方ないけれど、こういうときにふと寂しさを感じる。11歳の頃から書いてたのに。


子どもがハロウィンで見たガイコツを怖がるようになってから、子どもをコントロールしたいとき、とくに寝かせたいときは「そろそろガイコツが来るよ」と言って寝室に移動させている。あまりに使いすぎることだけは注意しないと。


「赤ちゃん」が「子ども」になったのはいつだろうか。最初は「おむつがとれたらかな」とか思っていた。

しかし実際にわたしが意識した瞬間は、子どもが「やい(やだ)」と言ったときかもしれない。

もう思い出せないけれど、まだ2歳になる前のはずだ。ご飯を食べさせようとしたり、お風呂のために服を脱がせようとしたり、「踏切に行く?」と聞いたりしたときに、子どもが「やい」と返答するのを見て、ハッキリとした意思を持っているんだなと感じたときだったと思う(ロジックは不明)。

ちなみに今ではベビーカーに一人で乗り込む自身のことを「もうおにいさんだから」と言う。お風呂に入りたくないときは「赤ちゃんだからおふろは入れないよ〜」とも言う。

嘘をつけるようになったときが「子ども」になったときかも。


ブログをずっと放置していたらGatsbyやReact、関連するライブラリたちのバージョンの乖離がひどかったので、一念発起でバージョンアップをした。

ついでにデザインも変更。テキストのフォントサイズは小さいほうが好きだなと感じて、全体的にベースを小さくした。


2歳7ヶ月の「赤ちゃん」がどんなものか知らなかった。

子どもと一緒に過ごすまでは「4,5歳になったらコミュニケーションをとれて楽しいだろうなあ」ぐらいの感覚だったが、いま思うと何も知らなすぎた。少なくともうちの子どもは、今日時点で以下の実績を解除している。

  • 自分が望む結果になるような説明をできる
    • 2歳過ぎた頃から「保育園は電車にのっていっちゃったよ」とか「いまはパンを食べてるから野菜は食べれないよ」とか言ってくるようになった
  • 最近は交渉もするようになってきた
    • 「パパと◯◯でテレビは順番に見ようね。最初は◯◯が見るから、パパは次に見てね」とか。こんなの小学生ぐらいにならないとやっておこないと思っていた
    • ちなみに筆者の番は永遠にまわってこない
  • 野次馬根性なのか、泣いてる子どもの様子をすごい追っている
    • 砂場で遊んでるとき泣いてる子どもの様子を見るために、わざわざ遊ぶ場所をちょっと変えたりしてる
    • しかもなんとなく遊んでる風を装いながら観察しているように見える

こういうのって今のわたしにはとても新鮮で「これ永遠に忘れないだろうな」と感じる類の経験なのだが、日常の力はすさまじく、もう1歳の頃の子どもがどのような成長段階だったか思い出せなくなっている。そのため忘れないように書き留めておいた。


久しぶりに技術系のキャッチアップのモチベーションが高まり、一気にAWSとTerraformの基礎知識を導入しなおした。不思議なもので、2年前ぐらいにも同じことを学んだ気はするが、あらためて今やると理解度が段違いだった。

研究と同じで、頭のなかにぼんやりと残しておくだけでも、なんとなく知識が頭の中に入っていたのだろう。これを定着・体系化させるのが今週末だった。


メモの最終形の反復。

完成されたアウトプットをつくるのは、相当ハードルの高い目標である。誰しもが白紙を見つめたままの時間、あるいはメトロノームのカウントをただ聴くだけの時間があったはずだ。

そしてこれを解決するために、メモを書きなぐったり適当な鼻歌を録音したりしてみたこともあるはずだ。しかしこれは根本的な解決にはならない。この一時的な記録は、いずれ揮発してしまうからだ。

真に重要なのは、完成品(あるいは「終わり」)と書き捨ての間にある、「ある程度の強度をもった、とても小さな作品」をつくることだと感じた。

途中の手順にフォーカスして、下線の引き方、読書法、抜き書きのしかたなどの理論を確立するのではありません。すべての手順をひとつの目標、つまり「公表できるレベルの洞察を得る」ことに向けて合理化します。
ズンク・アーレンス. TAKE NOTES!メモで、あなただけのアウトプットが自然にできるようになる (Japanese Edition) (p. 77). Kindle Edition.

文筆であれば、自分の関心に近い、意味のあるパラグラフ。音楽であれば数小節のループやちょっとしたリフ、サビのアイデアなど。このようなものを一つ集中してつくる。

これらが関連を持ち始めた頃、いよいよひとつのアウトプットが自然と顔を出す。こうなれば、あとは身体が覚えているだろう。年に一度訪れていたあの時間を過ごせばいいだけだ。


メモをとる」ことは、現代ではわりと有用なメソッドとして捉えられていると思う。『メモの魔力』なんて本が売れるぐらいだから、メモを書いて何かに役立てようとする人は多いはずだ。

しかし一方で「メモはとったけど、それで終わってしまった」という人も多い。かくいう自分も同じである。

なぜメモを書いているとかと言うと、ただメモをとりたい訳ではなく、その先になにかしらの結果を出そうとしているからだ。ということは、メモをとっただけでは意味がない。

これを学習すると、次は大量のメモをなんとかしてなにか高尚なものへ昇華させようとチャレンジする。成功すればメモを書いた甲斐が出てくるはずだ。

しかしこれも徒労に終わることが多い。書きなぐりのメモや読書メモ。買い物のメモや昨日測った体重のメモ。明日やることのメモや雑学のメモ。

さまざまな種類、そして重要度のメモに囲まれた状態で、どんなアウトプットが出せるだろうか。


『TAKE NOTES!――メモで、あなただけのアウトプットが自然にできるようになる』で紹介されている「ツェッテルカステン」という手法では、上記のようなメモとは別に、永久的なメモをつくることを説いている。

この永久的なメモは、単なるメモではなく、小さなアウトプットである。この時点でメモは、小さな勝利を手に入れたことになる。

メモは揮発させるために存在する訳でもなく、土の中に埋めるために存在する訳でもない。他のメモに触発されながら大きなメモへと育ち、そして気がついたときには大きな成果を出すための前提となっているのである。