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嫌いが好き

2022/12/17

久しぶりの更新。とはいえ「じゃあ4日間の記憶を思い出しながら書くかー」とはならない。だから日記を書くなら毎日がいいのだけれど、まあ仕方ない。30代になって変わったことのひとつだけれど、なんでも書けばいいってもんじゃない、ということを最近学んだかもしれない。書かないからこそ豊かな場合もありうるし、書きたくない話だってある(そんなのは中学から大小さまざまあったけど)。


最近振り返って感じるのは「家庭料理」のスキルがめきめき向上したことだ。30分以内ですべてを終わらせることが得意になってきた。

このスタイルは小林カツ代のラインであり、いまこの先頭にはバズレシピのリュウジやその他Youtuberが大勢いる。隣のレーンでは栗原はるみのラインがあり、そしてクラシルを筆頭としたその他Youtuberが大勢いる。俺も後者が良かったなー! しかし前者には前者の良さがある。30代になって変わったことのひとつだけれど「正直どっちでもいいや」と思うことのひとつだ。


書いていて、自身のこだわりがどんどん弱体化していることを感じる。とくに嫌いなものに対するこだわりが減っていく。なんでもいいのだ。赤塚不二夫みたいな。

10年前はヒップホップを聴いても「これが売れるのはわかるけど、自分のセンスには一切響かない」みたいなものが多くあったのだけれど、いまは何を聴いても「いや〜こういうのもいいよね〜」なんて、逆に何も聴いてないんじゃないか、という感想ばかりだ。もちろん好きな新譜はいまだにある。ただ「嫌い」がなくなってきたことで「好き」と「嫌い」の幅が狭くなってきたわけで、その幅の大きさをつかった感情の動きはなくなりつつある。

もし自分より若い人としゃべることがあれば「嫌いなことを大事にしよう」と伝えたいかも。こんなことを伝える私がまず嫌われるだろうが。


仕事を適当に終え、いっしょに仕事をしている後輩の子の同期の人と一緒に飲んだ。その人のことは名誉のためすべてを伏せよう。

田町にあるその小料理屋は「小料理屋」と呼ぶにはふさわしくない、完全に一見の客をよそ者として扱いそうな店だった。15年前であれば、私はそれに全力で抵抗していたであろう。「店が偉い」なんて前提は正しくない、と思っていたからだ。いまは違う。「店が偉い」という前提は守るべきである。偉かろうが偉くなかろうが。

そんなわけで、とくに強制もされないまま、おそらく簡単に作れるであろうおつまみと瓶ビールを飲みながら、いろんな話をした。すべての話が33歳の筆者には新鮮だったが、24歳の子がCoolioのGangsta Paradiseを名曲としているところがツボだった。今でも気を遣ってくれているのだと訝しんでいる。


仕事について。しょうもない人からの敵意に対して反撃せずに済ませるスキルを覚えなければならない、と思った。

そもそも「反撃してない」と思っていたけれど、相手に対して何の感情も抱いていない様子を見せてしまうのも反撃に値する行動だ。「反省している」ないしは「納得していないが理解している」ぐらいの態度はとらないといけない。思えば「持ちうるスキルで黙らせる」という行動が多かったかもな、と反省。

と反省しつつ明日も技術力でぶん殴るのだろう。あらためてふりかえると「ものをつくる」分野に関しては「分からないなら黙っててくれ」と思う心がまだ残っている。社会的にはマイナスだが良い傾向だとも思う。これは正しいプライドにつながるからだ。現時点では絶対に違うけれど。


氷の城壁

2022/12/12

仕事は何もしていない。ただ偉そうにしゃべるだけだった。素晴らしい。


ホットクックで水炊きをつくる。

ホットクックの手動調理にはコツがあって「炒める」や「蒸す」は強火でグツグツ煮る効果があるとのことだ。この面白さ、伝わるだろうか。「こんな使い方があったとは」系で、カードゲームで凡庸だったカードがいきなり環境トップに躍り出るような感じ。しばらくは「炒める」ことでスープをつくるためのレシピを探してしまいそう。


『氷の城壁』というマンガを読んでしまった。しきりに言っているのだが、ネット広告に出てくる無料のマンガが日本でもっともポピュラーな漫画だと思う。いちばん有名なキャラクターはルフィではなく「サバサバしているあの人」だと本気で信じているし。

『氷の城壁』を読みながら感じたのは、ストーリーに驚きを求める心はもう無くて「きっとこういう展開になるんだろうなあ」と思った通りに話が進んでくれることの心地よさだ。新鮮な驚きは『キン肉マン』で十分であり、自身が本気で向き合わない作品に対しては刺激よりも心地よさを重視している気がした。


土日は実家に帰った。子どもは家の中でボウリングをするのにハマり、ずっとプラスチックの球を親か祖父母に投げている。帰省は電車に乗る。子どもはもう何の電車に乗ればよいか理解しており、もうそろそろどの駅で降りるべきかも把握しそうだ。


会社からIntelliJ IDEAのライセンスが貸与されたので、久しぶりにVSCodeをはなれてIDEの利用を試してみた。

IDEは、はじめてエンジニアになったときにeclipseを使っていた。そのときはハッキリ言って「これは何だ?」と思いながらずっと使っていた。上司から教えてもらった通りに設定するが、何をしているかなんてひとつもわからなかった。

いまはなんとなく予想をつけて触りつつ、わからないものは公式ドキュメントを見れば解決する。知識というのは明確に意識せずともぼんやりと意識しているだけで定着するものだ、というテーゼがまた証明されてしまったかも。

そんな感じで来週からはIDEで仕事をする予定。そういえば採用面談で会った人がひさびさにVimmerで面白く、リスペクトと親近感を持てた。ペアプロになったことでVimmerは駆逐されるだろう。黒魔術は日の目を見ない。


ChatGPTが面白く、正直業務での一部利用をちょっと考えてしまっている。

チャットできるAI、ChatGPTが「そこまですごくない」理由。見えてしまった限界という記事はおそらく正しい内容なのだろう。ただこの記事は「とりあえずそれっぽいことを表面的に語るだけの、実は無能なヤバい奴」という指摘がAIのみに当てはまっている、と勘違いしている。ChatGPTに対する批判は、そっくりそのままこの記事のライター、私、そして貴方にあてはまる。AI批判は日の目を見る。

―日常をテーマにした、200から300字程度のエッセイを書いてください。

日常というテーマはとても広く、さまざまな方向から捉えることができます。私が日常というテーマについて書いてみたいと思います。

日常というのは、毎日繰り返される日々のことを指します。朝起きることや、仕事や勉強など、日々の生活の中で繰り返し行うことが日常になります。

日常は決して特別なことではありませんが、それでも大切なものです。

(ChatGPTとの対話)


保育園で拾った名前の知らない実を、子どもが大事に持っている。

1センチもない大きさなのでどうせ落とすだろうと思っていたが、歩くときもベビーカーに乗っているときも、結局落とさずに持ち帰っていた。実を潰してしまうのを恐れたのか、実をつかむのではなく茎のほうを起用につまんでいたのが印象的。


今日はDockerまわりをひたすら触っていた。

社内にはApple ChipとIntel Chipのどちらもがいるので、それにあったDockerfileを作成していたが、利用しているライブラリがApple Chipに対応していなそうなことがわかり、キレイな対応はできないと諦め気味になった。

とはいえDockerまわりについて知らないことが多すぎることもわかった。 どんな技術も、使っているときは万能感を得られるが、いざ壁にあたると何も知らないことを思い知らされる。


妄言

2022/12/05

家の中で救急車を動かしながら「みちをあけてください!」と遊んでいる。ちゃんとそのときだけサイレンを鳴らして、目の前にいるトミカにどくよう促している(どかすのは親の役割)。こうやって遊べるのにも毎度驚くが、もっとびっくりしたのは目の前に車がいないときにサイレンを鳴らしてしまったときに「まちがえちゃった」と言ったことだ。明確なルールがあって遊んでいるんだ。

ちょっと前からだけれど、最近保育園に行きたくないときに「保育園はもうしまっちゃったよ」とか「保育園は電車に乗っていっちゃったよ」と言うことがある。最初は面白い表現だなと感心していたけれど、本人の頭の中では本当に電車に乗ってどこかに行っているのだろうと思うようになってきた。妄想を事実だと思い混むような心の動きには、大人も子どもも関係ない。リアリティーの度合いすら関係なく、むしろ子どものそれのほうが現実的だ。


久々に髪を切ってきた。長髪にしてもう2,3年が経つので、短かった頃がもはや懐かしい。子育てが落ち着いたらまた短くしようかな。