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M-1グランプリが終わったあとの「さあもう年末だ」感が大好きだ。できれば22日ぐらい日曜日だったら最高だ。M−1の多幸感に浸ってるうちに仕事が終わってるからだ。今年はすこしだけ現実に引き戻されつつ、ダラダラ働いている。

昨日は子どもを連れて会社のクリスマス会に参加させてもらった。はじめてビンゴカードをもらったけれど、2歳児なりにルールを把握したみたいで、数字が発表されるたびに「やったぞ!」と大声を出している。ビンゴカードはもらった時点で12ラインを揃えてしまった。


AWSの勉強はモチベーション低めに続けている。最近はIAMまわりを再学習しているけれど、実際に業務で扱えるような気がしてきた。今日はAWSのIDプロバイダを理解して、実際に仕事でどう利用されているかも把握できた。知らないことを知る、この瞬間が最大に楽しい。


ヒャダイン、タイパ重視に感じる「疲れ」 音楽活動でも影響を実感(Yahoo!ニュース オリジナル Voice)で「タイパ」という言葉をはじめて知った。本当に知らなくて、流行と流行に対する自身のフェーズが変わってきたことを再実感している。

「無駄こそ人生の醍醐味」みたいな話に収束していくのだろうが、この回答はなんだか胸の奥がつっかえる。なぜだろうと考えていたらわかった。別に「タイパのアンチとして無駄を楽しもうとする態度」なんて取ったことがないからだ。「よーし、今日はゆっくりするぞ!」なんて決めてゆっくりするのは年に数回もない。「今日もゆっくりしちゃったな」という毎日だ。いつだって時間は事後に把握される。

そして「無駄こそ〜」となるのは、そんなある種の後悔や自虐をともなう時間の過ごし方の集積に対して何かしらの言い訳を見つけたいときのはずだ。無駄は無駄であり、無駄を計画することほど不思議なことはない。


子どもと散歩に出かける。相当歩いた。信号のない横断歩道で、子どもが車が来ていないかを確認していたことに驚いた。帰りにシャトレーゼで適当にお菓子をカゴに入れていたら、子どもも気になったお菓子をカゴに入れてきた。これもはじめて。そのうち食べたいお菓子をどんどんカゴに追加してきて、バトルになるんだろうな。


敗者復活戦。オグシオが優勝。

まだどのコンビが勝ち上がるかは知らないけれど、やっぱりオズワルドだろうな。圧倒的。というかM-1グランプリという番組を今日やるにあたって、オズワルドを敗者復活から持ち上げないとギアが上がらないと感じた。

シンクロニシティとストレッチーズは、敗者復活戦で観れただけでも良しとしよう。ストレッチーズはどうか来年のM-1こそゴールデンタイムで観れますように。ハイツ友の会も、来年はこのスタイルに展開が上乗せされるのだろうと思うと、とんでもなく面白い図が浮かんできた。

そしてかもめんたるのラストは、番組終了時のコメントをふくめ、めちゃくちゃカッコよかったことを覚えておこう。あのネタ、ギリギリじゃないですか? あと井下好井の解散のYahoo!ニュースにコメントしていたことのを見つけて「明日敗者復活戦に出るんだよね?」と思った(仕事だから普通のことだけれど)。


M-1グランプリ、3組目まで終わった。オズワルドの敗者復活は当てたものの、まさかあんなに緊張したまま走り切るとは思わなかった。シンプルに「冬の寒空からステージに上がる」ことに対して得意/不得意があるのだなと、いまさらながら理解した。

しかしそんなことよりもテレビ番組としては、邦ちゃんにすべてを持っていかれている。みんなネタよりも山田邦子の点数のほうに興味があるはずだ。この時点で笑っている視聴者も怒っているツイッタラーも完全に心を奪われている。「山田邦子のいないM-1グランプリ」は一度計算しておこう。たぶん結果は変わらないだろうけど。


7組目まで終了。とってもいい大会。ロングコードダディと男性ブランコの評価に驚きつつ。

個人の感想は大吉先生とまったく同じ評価が続く。


9組目まで終わった。ヨネダ2000ではじめて腹爆発するぐらい笑った。この時間に、この舞台で、このネタが演じられていること。彼女たちのために「本気でバカやってる」って言葉はある。これまでこの表現を使ったことがないけれど、はじめて適切な使い所を見せられた。

そしていちばん期待しているウエストランドがラスト。680点出して、そのままチャンピオンになるぞ。


最終決戦前。ウエストランドが期待通り3位以内に入ってよかった。最終決戦でコンプライアンスのネタやるのかな。あれをテレビの画面でやったら、完全にできあがりだと思う。


最終決戦が終わった。ウエストランドの大会、として締めくくるのが番組としては完璧だと思う。もちろんさや香でも文句はない。ウエストランドが王者になったとき、自分はどんな気持ちになるだろうか。


ウエストランドが優勝。2019年に対するアンチテーゼとなるような大会と記憶されるだろう。傷つける/傷つけないという区分けはまったく適切ではないものの、ポップにまとめられるこの区切りは今後も擦られるだろう。

なにかオリジナルな発見があればちゃんと書こうと思うが、今年は準決勝の配信も見るなど、客観的に振り返る力が残ってないと感じている。M-1という快適な空間に浸りきった人物から見れば、今年も大成功だ。しかしまだ終わりじゃない。アナザーストーリーを見ないと、この大会は終了しない。忘れず予約しよう。


嫌いが好き

2022/12/17

久しぶりの更新。とはいえ「じゃあ4日間の記憶を思い出しながら書くかー」とはならない。だから日記を書くなら毎日がいいのだけれど、まあ仕方ない。30代になって変わったことのひとつだけれど、なんでも書けばいいってもんじゃない、ということを最近学んだかもしれない。書かないからこそ豊かな場合もありうるし、書きたくない話だってある(そんなのは中学から大小さまざまあったけど)。


最近振り返って感じるのは「家庭料理」のスキルがめきめき向上したことだ。30分以内ですべてを終わらせることが得意になってきた。

このスタイルは小林カツ代のラインであり、いまこの先頭にはバズレシピのリュウジやその他Youtuberが大勢いる。隣のレーンでは栗原はるみのラインがあり、そしてクラシルを筆頭としたその他Youtuberが大勢いる。俺も後者が良かったなー! しかし前者には前者の良さがある。30代になって変わったことのひとつだけれど「正直どっちでもいいや」と思うことのひとつだ。


書いていて、自身のこだわりがどんどん弱体化していることを感じる。とくに嫌いなものに対するこだわりが減っていく。なんでもいいのだ。赤塚不二夫みたいな。

10年前はヒップホップを聴いても「これが売れるのはわかるけど、自分のセンスには一切響かない」みたいなものが多くあったのだけれど、いまは何を聴いても「いや〜こういうのもいいよね〜」なんて、逆に何も聴いてないんじゃないか、という感想ばかりだ。もちろん好きな新譜はいまだにある。ただ「嫌い」がなくなってきたことで「好き」と「嫌い」の幅が狭くなってきたわけで、その幅の大きさをつかった感情の動きはなくなりつつある。

もし自分より若い人としゃべることがあれば「嫌いなことを大事にしよう」と伝えたいかも。こんなことを伝える私がまず嫌われるだろうが。


仕事を適当に終え、いっしょに仕事をしている後輩の子の同期の人と一緒に飲んだ。その人のことは名誉のためすべてを伏せよう。

田町にあるその小料理屋は「小料理屋」と呼ぶにはふさわしくない、完全に一見の客をよそ者として扱いそうな店だった。15年前であれば、私はそれに全力で抵抗していたであろう。「店が偉い」なんて前提は正しくない、と思っていたからだ。いまは違う。「店が偉い」という前提は守るべきである。偉かろうが偉くなかろうが。

そんなわけで、とくに強制もされないまま、おそらく簡単に作れるであろうおつまみと瓶ビールを飲みながら、いろんな話をした。すべての話が33歳の筆者には新鮮だったが、24歳の子がCoolioのGangsta Paradiseを名曲としているところがツボだった。今でも気を遣ってくれているのだと訝しんでいる。


仕事について。しょうもない人からの敵意に対して反撃せずに済ませるスキルを覚えなければならない、と思った。

そもそも「反撃してない」と思っていたけれど、相手に対して何の感情も抱いていない様子を見せてしまうのも反撃に値する行動だ。「反省している」ないしは「納得していないが理解している」ぐらいの態度はとらないといけない。思えば「持ちうるスキルで黙らせる」という行動が多かったかもな、と反省。

と反省しつつ明日も技術力でぶん殴るのだろう。あらためてふりかえると「ものをつくる」分野に関しては「分からないなら黙っててくれ」と思う心がまだ残っている。社会的にはマイナスだが良い傾向だとも思う。これは正しいプライドにつながるからだ。現時点では絶対に違うけれど。


氷の城壁

2022/12/12

仕事は何もしていない。ただ偉そうにしゃべるだけだった。素晴らしい。


ホットクックで水炊きをつくる。

ホットクックの手動調理にはコツがあって「炒める」や「蒸す」は強火でグツグツ煮る効果があるとのことだ。この面白さ、伝わるだろうか。「こんな使い方があったとは」系で、カードゲームで凡庸だったカードがいきなり環境トップに躍り出るような感じ。しばらくは「炒める」ことでスープをつくるためのレシピを探してしまいそう。


『氷の城壁』というマンガを読んでしまった。しきりに言っているのだが、ネット広告に出てくる無料のマンガが日本でもっともポピュラーな漫画だと思う。いちばん有名なキャラクターはルフィではなく「サバサバしているあの人」だと本気で信じているし。

『氷の城壁』を読みながら感じたのは、ストーリーに驚きを求める心はもう無くて「きっとこういう展開になるんだろうなあ」と思った通りに話が進んでくれることの心地よさだ。新鮮な驚きは『キン肉マン』で十分であり、自身が本気で向き合わない作品に対しては刺激よりも心地よさを重視している気がした。


土日は実家に帰った。子どもは家の中でボウリングをするのにハマり、ずっとプラスチックの球を親か祖父母に投げている。帰省は電車に乗る。子どもはもう何の電車に乗ればよいか理解しており、もうそろそろどの駅で降りるべきかも把握しそうだ。


会社からIntelliJ IDEAのライセンスが貸与されたので、久しぶりにVSCodeをはなれてIDEの利用を試してみた。

IDEは、はじめてエンジニアになったときにeclipseを使っていた。そのときはハッキリ言って「これは何だ?」と思いながらずっと使っていた。上司から教えてもらった通りに設定するが、何をしているかなんてひとつもわからなかった。

いまはなんとなく予想をつけて触りつつ、わからないものは公式ドキュメントを見れば解決する。知識というのは明確に意識せずともぼんやりと意識しているだけで定着するものだ、というテーゼがまた証明されてしまったかも。

そんな感じで来週からはIDEで仕事をする予定。そういえば採用面談で会った人がひさびさにVimmerで面白く、リスペクトと親近感を持てた。ペアプロになったことでVimmerは駆逐されるだろう。黒魔術は日の目を見ない。


ChatGPTが面白く、正直業務での一部利用をちょっと考えてしまっている。

チャットできるAI、ChatGPTが「そこまですごくない」理由。見えてしまった限界という記事はおそらく正しい内容なのだろう。ただこの記事は「とりあえずそれっぽいことを表面的に語るだけの、実は無能なヤバい奴」という指摘がAIのみに当てはまっている、と勘違いしている。ChatGPTに対する批判は、そっくりそのままこの記事のライター、私、そして貴方にあてはまる。AI批判は日の目を見る。

―日常をテーマにした、200から300字程度のエッセイを書いてください。

日常というテーマはとても広く、さまざまな方向から捉えることができます。私が日常というテーマについて書いてみたいと思います。

日常というのは、毎日繰り返される日々のことを指します。朝起きることや、仕事や勉強など、日々の生活の中で繰り返し行うことが日常になります。

日常は決して特別なことではありませんが、それでも大切なものです。

(ChatGPTとの対話)