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「赤ちゃん」が「子ども」になったのはいつだろうか。最初は「おむつがとれたらかな」とか思っていた。

しかし実際にわたしが意識した瞬間は、子どもが「やい(やだ)」と言ったときかもしれない。

もう思い出せないけれど、まだ2歳になる前のはずだ。ご飯を食べさせようとしたり、お風呂のために服を脱がせようとしたり、「踏切に行く?」と聞いたりしたときに、子どもが「やい」と返答するのを見て、ハッキリとした意思を持っているんだなと感じたときだったと思う(ロジックは不明)。

ちなみに今ではベビーカーに一人で乗り込む自身のことを「もうおにいさんだから」と言う。お風呂に入りたくないときは「赤ちゃんだからおふろは入れないよ〜」とも言う。

嘘をつけるようになったときが「子ども」になったときかも。


ブログをずっと放置していたらGatsbyやReact、関連するライブラリたちのバージョンの乖離がひどかったので、一念発起でバージョンアップをした。

ついでにデザインも変更。テキストのフォントサイズは小さいほうが好きだなと感じて、全体的にベースを小さくした。


2歳7ヶ月の「赤ちゃん」がどんなものか知らなかった。

子どもと一緒に過ごすまでは「4,5歳になったらコミュニケーションをとれて楽しいだろうなあ」ぐらいの感覚だったが、いま思うと何も知らなすぎた。少なくともうちの子どもは、今日時点で以下の実績を解除している。

  • 自分が望む結果になるような説明をできる
    • 2歳過ぎた頃から「保育園は電車にのっていっちゃったよ」とか「いまはパンを食べてるから野菜は食べれないよ」とか言ってくるようになった
  • 最近は交渉もするようになってきた
    • 「パパと◯◯でテレビは順番に見ようね。最初は◯◯が見るから、パパは次に見てね」とか。こんなの小学生ぐらいにならないとやっておこないと思っていた
    • ちなみに筆者の番は永遠にまわってこない
  • 野次馬根性なのか、泣いてる子どもの様子をすごい追っている
    • 砂場で遊んでるとき泣いてる子どもの様子を見るために、わざわざ遊ぶ場所をちょっと変えたりしてる
    • しかもなんとなく遊んでる風を装いながら観察しているように見える

こういうのって今のわたしにはとても新鮮で「これ永遠に忘れないだろうな」と感じる類の経験なのだが、日常の力はすさまじく、もう1歳の頃の子どもがどのような成長段階だったか思い出せなくなっている。そのため忘れないように書き留めておいた。


久しぶりに技術系のキャッチアップのモチベーションが高まり、一気にAWSとTerraformの基礎知識を導入しなおした。不思議なもので、2年前ぐらいにも同じことを学んだ気はするが、あらためて今やると理解度が段違いだった。

研究と同じで、頭のなかにぼんやりと残しておくだけでも、なんとなく知識が頭の中に入っていたのだろう。これを定着・体系化させるのが今週末だった。


メモの最終形の反復。

完成されたアウトプットをつくるのは、相当ハードルの高い目標である。誰しもが白紙を見つめたままの時間、あるいはメトロノームのカウントをただ聴くだけの時間があったはずだ。

そしてこれを解決するために、メモを書きなぐったり適当な鼻歌を録音したりしてみたこともあるはずだ。しかしこれは根本的な解決にはならない。この一時的な記録は、いずれ揮発してしまうからだ。

真に重要なのは、完成品(あるいは「終わり」)と書き捨ての間にある、「ある程度の強度をもった、とても小さな作品」をつくることだと感じた。

途中の手順にフォーカスして、下線の引き方、読書法、抜き書きのしかたなどの理論を確立するのではありません。すべての手順をひとつの目標、つまり「公表できるレベルの洞察を得る」ことに向けて合理化します。
ズンク・アーレンス. TAKE NOTES!メモで、あなただけのアウトプットが自然にできるようになる (Japanese Edition) (p. 77). Kindle Edition.

文筆であれば、自分の関心に近い、意味のあるパラグラフ。音楽であれば数小節のループやちょっとしたリフ、サビのアイデアなど。このようなものを一つ集中してつくる。

これらが関連を持ち始めた頃、いよいよひとつのアウトプットが自然と顔を出す。こうなれば、あとは身体が覚えているだろう。年に一度訪れていたあの時間を過ごせばいいだけだ。


メモをとる」ことは、現代ではわりと有用なメソッドとして捉えられていると思う。『メモの魔力』なんて本が売れるぐらいだから、メモを書いて何かに役立てようとする人は多いはずだ。

しかし一方で「メモはとったけど、それで終わってしまった」という人も多い。かくいう自分も同じである。

なぜメモを書いているとかと言うと、ただメモをとりたい訳ではなく、その先になにかしらの結果を出そうとしているからだ。ということは、メモをとっただけでは意味がない。

これを学習すると、次は大量のメモをなんとかしてなにか高尚なものへ昇華させようとチャレンジする。成功すればメモを書いた甲斐が出てくるはずだ。

しかしこれも徒労に終わることが多い。書きなぐりのメモや読書メモ。買い物のメモや昨日測った体重のメモ。明日やることのメモや雑学のメモ。

さまざまな種類、そして重要度のメモに囲まれた状態で、どんなアウトプットが出せるだろうか。


『TAKE NOTES!――メモで、あなただけのアウトプットが自然にできるようになる』で紹介されている「ツェッテルカステン」という手法では、上記のようなメモとは別に、永久的なメモをつくることを説いている。

この永久的なメモは、単なるメモではなく、小さなアウトプットである。この時点でメモは、小さな勝利を手に入れたことになる。

メモは揮発させるために存在する訳でもなく、土の中に埋めるために存在する訳でもない。他のメモに触発されながら大きなメモへと育ち、そして気がついたときには大きな成果を出すための前提となっているのである。


  • 仕事は順調。
  • Bはどんどん賢くなっていく。
    • 最寄り駅にはヤマダ電機があって、その6階にはおもちゃ屋がある。お迎えから帰るときのBの目的は、なんとかこのおもちゃ屋に寄ることだ。
    • 保育園から出るやいなや、まずは「今日はおもちゃ屋に行こうね〜」と声をかけてくる。当然行く気がないので「今日はおうちに帰るのがオススメだよ」と返答すると「今日はおもちゃ屋がおすすめだよ」と言い返してくる。
    • 「おうちにもおもちゃがあるよ」と言えば「おもちゃ屋にもおもちゃがあるよ」とか「おうちにはおもちゃがないよ」と言い返してくる。
    • いちばんビックリしたのは「おもちゃ屋はまだあいてるよ」と助言すらしてきたことだ。ちょっと前、夜にヤマダ電機を通ったときに「もうおもちゃ屋が閉まってるね」と教えたことがあるけど、いつ「閉まる」の反対が「開いてる」と理解したんだ?
  • 部屋を片付けた影響で、ひさびさに気楽に過ごせている。おもちゃの収納も変えたおかげで、Bも片付けに協力してくれるようになった。
    • ちょっと前まではBを寝かしてから、自分も寝ぼけた状態で居間に降りて、散らかりつくした部屋を片付け、、、られずに飲んだりしていた。これがなくなっただけでも凄い進化。

人狼最大トーナメント2戦目を視聴。作業用BGMのつもりで気軽に見ているが、真剣に考えようとするととんでもなく労力を要する。紙に書いて整理すればギリギリ楽しめるが、カンペなしで対面でやるとしたらもう勘でやるしかない。

声の文化と文字の文化』の第1章を読む。いかに文字の文化が(とくに研究者のあいだで)特権的であったかを説明し、できるかぎりバイアスなくこのあとの話題を読めるようにしている。「読める」と書いたように、この本自体が書かれたものであることは重要。

つまり文字文化が人間の意識をかたちづくり、人間の意識を高度技術文化に向かわせ、高度技術文化に導き入れるとき、そうした〔意識をかたちづくる〕文字文化とは、そもそもなんであったのか、ということである。声の文化と文字文化の両方についてのこうした理解こそ、言うまでもなく文字で書かれ、口頭で演じ語られるものではない本書が、できる範囲で達しようと試みているものなのである。

ちょうどいまはコミュニケーションに動画(Zoom、LINEなど)が使われるになってきた。本を読み終え段階で、2022年なりの考察ができるかもしれない。とても陳陳だろうけど。

居間の整理をしたくなって、家の中にある棚を移動させたり、ニトリや無印良品を歩きまわったした。たぶん6時間ぐらい休みなしで働いてた気がする。

通通常暮暮らと異なり子どもと暮らすようになると、子どもの成長にしたがって収納するものや量がどんどん変わっていく。これに対応できるような収納じゃないと、すぐに部屋が散らかる。

この状態って開発と同じでは、と感じた。つまり変更しやすいコード=変更しやすい収納こそが正義である。変更できない収納/プログラムの場合だと、要件の変更に対応できず現行の収納/プログラムをうまく使うしかない。

そして家具に入れるものを依存させるのか、入れるものに家具を依存させるのかがポイント。ふつうの収納は前者になりやすいので後者にする発想をもつ必要がある。そしてお気に入りの家具があれば、それは前者であることを強く意識して利用する。

西友の店内BGMがとにかく素晴らしい。往年のヒット曲メドレーみたいな感じで、いつも買い物中にウットリする。覚えている曲をとりあえずSpotifyのプレイリストにした。日々の仕事として適宜追加する。SEIYUタグもつくった(ホームページ上ではまだタグにできていないので、開発する)。

今日はSmoky Robinsonの”Quiet Storm”をよく聴いた。結局のところ、中学から今までモータウンが心を掴んで離さないことがわかる。モータウンに属さない素晴らしい楽曲はいくらでもあるが、自分が感涙するような曲はたいていモータウンの成分が入っている。

https://open.spotify.com/track/1JhpdM2PtIsKC0lrBTPSAK?si=7d75f2ccda7a4f33

モータウン関連の書籍を探していたら、『魂のゆくえ』の新版が販売されているのを知った。ポイント還元もすごかったのですぐに購入。コンプリート・モータウンも気になる。次に買うことにしよう。別別ジャンだけどもうすぐ絶滅するという開かれたウェブについて 続・情報共有の未来もめちゃくちゃ気になる。数年ぶりに本を買い込む時期が訪れたのかも。