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「ジャングルポケットがKOC決勝!?

どれだけ良いネタ作ったんだろうか!」と驚きつつもボーッとしていたら、「あっ⋯⋯」という間にKOC前日でした(池波正太郎的な「あっ」の使い方)。

「前回の視聴率が低かったから、今回は知名度の高い芸人を選んだんだろう?」という声もありますが、そんなことはどうでもよく、藤崎マーケットが決勝に出れたことの俺はアツくなったというか、まあ本気で応援します(笑・昨年のR-1の彼らがすごい印象的だったんですよね)。


しかし、今回はそんなこともブッ飛ぶくらいのニュースがありました。 それは、 審査員の一新 です。まだ知らない人は、まずは下のニュースを。

『キングオブコント』“大改革”審査員に松本人志、バナナマン、さまぁ~ず ネタ順も決定 | ORICON STYLE

それで、決勝の始まる前に、この審査員の交代がどれだけ大きなことか書いておきたいと思いました。 微妙に長いので結論を先に載せると、

「漫才」と「コント」の力関係について大きな影響を与えるんじゃ? という話です。

王冠を、漫才からコントへ

まず、今回の審査員の話をする前に、あらためて『M-1』のことを考えておく必要があります。

松本人志という権威について

拙記事で恐縮ですが、「THE MANZAIはM-1を殺した―中川家から博多華丸・大吉まで」を引用させてください。これからの話は、これを前提としています。

結論からいうと、M-1は「権威」と「批評性」を打ち出しながら、同時に「物語=歴史」を積み重ねることで、モンスター級のポップさと裏読みの可能性を持った番組として、2000年代のお笑い界に君臨しました。
M-1の「権威」というのは、賞金と審査員のことです。1000万という破格の金額が一夜にして入ってくる。さらに、それらを審査する人間の中に、「松本人志」という日本のお笑いのカリスマがいる。

松本人志は、1989年生まれである26歳(私です)にとっても、1979年生まれである36歳も、1999年生まれである16歳にとっても、「日本のお笑いのトップ」だというイメージが強くあります(2009年生まれの6歳は違うかもしれません)。

松本人志が笑うものは、自分も笑わなければならない。松本人志が認めた芸人は、自分も(センスがあるならば)認めているはずだ。このような思考は、それなりに一般的なものでしょう。

なので、どのような賞レースでも、そこに松本人志がいるといないではその権威に大きな違いが生まれます。 チャンピオンにつく「箔」がまったく異なるのです。

それは『THE MANZAI』のことを考えれば納得できるかもしれません。 パンクブーブー、ハマカーン、ウーマンラッシュアワー、博多華丸・大吉。『THE MANZAI』に優勝したことがキッカケで大きな人気(と権威)を得たコンビは、私の感覚ではいません。

それぐらい、「松本人志が審査員にいる」ということは、重要なことなのです。

5年の歳月を経て、権威は移動した

2010年に『M-1』が終わり、権威は5年の間、宙に浮いていました(この5年間で、『M-1』は『THE MANZAI』に殺されてしまったのだ、というのがさっきの記事です。後述しますが)。

そして2015年、松本人志が『キングオブコント』の審査員席に腰を下ろすことになりました。

大袈裟に聞こえるかもしれませんが、このことは、『M-1』にあった笑いの権威が『キングオブコント』に移動することを表している、と考えています。

ザックリと言えば、 お笑いの王冠を「漫才」から「コント」へと移そうとするチャレンジが始まりました。

欲望される「コントの復権」

なぜ2015年にこんな事が起こったのか? もう少し経たないとわからない事ですが、おもに芸人側から 「コントの復権」が欲望されている、という仮説を考えることはできます。

3つのコント番組

「コントの復権」について、3人の芸人を挙げたいと思います。松本人志、志村けん、内村光良です。

彼らは皆、自分のやりたいコント番組をここ5年の間に始めています。(※1) 松本人志は、まさに『M-1』が終わる2010年から2012年にかけて、

『松本人志のコントMHK』 を作りました。 志村けんは、 **『となりのシムラ』**という番組を、2014年の12月に第1回を、そして今年の8月に第2回を、それぞれ手がけました。 内村光良は、この3人の中でもとりわけ熱意を持ち、

『LIFE!〜人生に捧げるコント〜』 を精力的に続けています。初回は2012年9月。そして2013年からは毎年放送されています。(※2)

どれも高い視聴率を叩き出すことはありませんでしたが、これが逆説的に「芸人側がコントをやりたがっている」ことを説明することになっています。

《芸》と《能》の狭間で

とはいえ、なぜ芸人がコントをやりたがっているか。そろそろ妄想性が増してきましたが、お付き合いいただければ幸いです(笑)。

私が考えるに、漫才は自身のキャラクタを打ち出す必要がある(ネタ中とフリートークでキャラが違うことはNG)一方で、コントはそのような必要がない。ということが一つの理由です。

この件を考える度に思い出す話がありまして、「バナナマン設楽「コントの人は二度売れなきゃいけない」 -笑いの飛距離」から引用させていただきますが、

設楽「これでもね、本当ド裏の話で、これ別にポッドキャストで言うことじゃないかもしれないけど、俺ね、コントの人って……よくさ、大阪の人は二度売れなきゃいけないってあるじゃん、
コントの人って二度売れなきゃいけないんだよ 」 児嶋「本当そう思う」 設楽「 漫才師は、そのまんまのキャラクターというか人間性を出せる
でしょ、今のテレビって本質の人間の面白さみたいなところがあるじゃん、だけど、コントの人って演じてる自分を見せて一回名が通ったら、そっからもう一回その個人の、どういう人間かを知らしめなきゃいけないじゃん」

この時点では、「コントで売れることがある」という前提が置かれていますが、現在はこの前提すら崩れ始めています。

「そのまんまのキャラクターというか人間性を出せる」番組がウケる時代に、「演じてる自分を見せ」る番組は減り、その必要は薄れていきました。

これ、私がずっと考えていることで、また拙記事で恐縮ですが「「うるせぇ。バラエティは《芸》でなく《能》の時代なんだ」という想像」から引用すると、

《芸》=「努力して身につけた力」 《能》=「努力せずに身についていった/もともとついている力」 […]
で、何が言いたいかといいますと、序文通り、2015年現在は
「努力せずに身についていった/もともとついている力」=《能》を持っているタレントが求められている だろう、ということです。

上のように考えたとき、《芸》の範囲にあるコントは求められていません。

で、これが苦痛に感じる芸人もいた。とりわけ大御所と呼ばれる上述した3人は、この状況に対してそれぞれ一石を投じました。

『M-1』は2度死ぬ

この後の話は、明日のキングオブコントが終わってから考えることにしましょう。章のタイトルは、ヒントというかメモみたいなもんです。

とりあえず、「漫才」と「コント」の力関係について大きな影響を与えるんじゃ? という話でした。こねくり回し過ぎですかね(笑)。

まずは明日の放送を待ちたいと思います。 藤崎マーケット優勝してくれー!

(※1)どれもNHKで放送されていますが、このことについて、ここでは考えません。「NHKは予算があるんだよ」とか以上に、もっと大きなことが要因にある気がしています。

(※2)先日、シーズン3が終わりました。シーズン4があることを心より願います)


文字通り「新書」だと思って購入したところ、1988年の発行だと知り、驚いた。まだ自分が生まれるギリギリ前に、このような名著が出ていたとは。

[amazonjs asin=“4061488988” locale=“JP” title=“はじめての構造主義 (講談社現代新書)“]本書は、80年代当時流行っていた、そして今でも影響を与えている <構造主義>という思想について、どのように出来上がってきたかを解説したものだ。学術書としては平易に書かれているため、読みやすい。 <構造主義>の産みの親とも言えるレヴィ=ストロースに注目している点が特徴的だ。彼の仕事を追うように進むので、まるで自分が構造主義を考えたかのような気持ちになれる。だから、読んでいて違和感が無い。あまりにストレートなので、むしろ疑いの念が生まれる。

レヴィ=ストロースは人類学・神話学の学者で、自分の興味の範疇に入っている。はずなのだが、実際に思想に触れたことは無かった。同じような人には、強くオススメしたい。

本書を読んでとくに面白かった点は、2つある。 ひとつは、<構造主義>あるいは<構造主義>を形作った思想や学問があらゆる ヨーロッパ文明(マルクス主義、実存主義、機能主義、ユークリッド幾何学、作者の権威、主体の価値、ただひとつの真理) を内部からブチ壊していったこと。この流れが気持ちよく書かれている。

とくに、<構造主義>は「理性」と「真理」に対するヨーロッパの盲目な信頼に大打撃を与えた。何千年もかけて求めた真理に対して、 「唯一の真理は無い」

という答えを出してしまったのである。

ここでの重要な点は、この答えが別の異世界からもたらされたものではないことだ。ヨーロッパ文明が発展を遂げていく中で生まれた自己修正なのである。

もうひとつの面白かったところは、上のような思想が、実は 数学を下地としていた ことだ。 以降では、こっちの話をちょっとまとめておきたいと思う。

数学は絶対でない

長い歴史の中で、さまざまな思想が生まれては消え、更新されていったヨーロッパ文明。しかし、その中で変わらないものがあった。それは 「真理」 だ。

どんな考えも思想も、この「真理」に対するアプローチであることに変わりはない。思想家たちは真理を求めて、さまざまな考えを打ち出したのである。

この「真理」へと辿るレールを整備したのは、数学の 証明 (と論理学)だった。

この手法を使えば、途方も無い時間はかかるかもしれないが、間違いなく一歩ずつ真理へと進められる、とヨーロッパ文明は考えていた。

数学の証明とは、「公理から定理を導き出すこと」だ。詳しく説明すれば、

「論理とかじゃなく、どう考えたって正しいこと」をスタートにして、「論理的に導き出せる答え」を作ろう 、という感じ。

ポッキーの先端(公理)を食べ始めると自然ともう片方の先端(定理)までたどり着く、みたいなイメージだとわかりやすいだろうか。

このとき、ポッキーの先端は証明不可能(ここが重要)であり、証明の必要も無いくらいに正しいのである。

2000年前につくられた「ユークリッド幾何学」がこれにあたる。「直線外の一点を通って、その直線に平行な直線を一本だけ引くことができる(平行線定理)」など、5つの公理が定められた考え方だ。

しかし19世紀に入ると、この考え方に並ぶ考え方が現れる。「非ユークリッド幾何学」である。

非ユークリッド幾何学の誕生は、とてつもない衝撃を生み出すことになった。それは、 非ユークリッド幾何学の公理が、ユークリッド幾何学の公理と異なるからである。 つまり、「論理とかじゃなく、どう考えたって正しいこと」が2つあったのだ。 ポッキーは1本じゃなかったのだ!

これは、数学以外の思想にも大きな影響を与えることになる。今までに導き出していた真理は、すべてある任意の公理から作られているだけなのではないか。別の公理を設定すれば、まったく異なった真理が出てくるのではないか。

<構造主義>では、この公理のことを「制度」と呼び、

「ヨーロッパの知のシステムは、<真理>を手にしていたつもりで、実は制度の上に安住していただけではないか」 (本書p152)との批判を提出した。

ちなみにこのあとの数学は、非ユークリッド幾何学を皮切りに、リーマン幾何学、ロバチェフスキー・ボーヤイの幾何学など様々な公理をもとにした幾何学が生まれ、20世紀にはアインシュタインによるユークリッド幾何学から遠く離れたモデルを利用した理論(相対性理論)まで生まれることになった。


本書の説明はここで終わらず、実はこのあとの 「<構造>は、<遠近法>の発展の末に生まれた」 という仮設がもっともスリリングで面白い。

結論部しか引用しないのでわかりづらいとは思うが、興味があれば読んで損は無いと思う。ぜひ。

レヴィ=ストロースは、主体の思考(ひとりひとりが責任をもつ、理性的で自覚的な思考)の手の届かない彼方に、それを包む、集合的な思考(大勢の人びとをとらえる無自覚な思考)の領域が存在することを示した。それが神話である。神話は、一定の秩序――個々の神話の間の変換関係にともなう<構造>――をもっている。この<構造>は、主体の思考によって直接とらえられないもの、“不可視”のものなのだ。
(橋爪大三郎『初めての構造主義』、講談社現代新書、1988年、p190。)


人気番組。とはまったく言えませんが、毎週面白い『笑けずり』です。内さまのANNがあったので録画して視聴。

中川家が笑い飯が千鳥が本気だ。芸人たちのガチサバイバル番組「笑けずり」が凄い」という良い記事が出るなど、再来週が最終回ですが、なんとか盛り上がるといいなと思います。すべての回の再放送もあるようですよ!

そんな中、「笑けずりってさ、ガチとヤラセについて考えるいい機会だと思うよ」とか[_「どうせ決勝は、こころ、Aマッソ、ザ・パーフェクトなんでしょ?

知ってるよオレ」_](http://koboriakira.com/2015/09/10/1784/)とか言ってるバカなブロガーを一人知っています。

そんなバカも今回ばかりは「 嘘だろー! こころのいない『笑けずり』なんて面白いのか!? 」とブーブー文句たれつつ、荒木の行動ひとつひとつに号泣してしまいました。 批評なんて糞喰らえ! とにかく荒木の純粋さに胸を打たれ、それを上回る山出谷の純粋さに涙腺をブン殴られました。「漫才が好きになった」のは、私たちもです。回を重ねるごとに成長するこころの漫才は、『笑けずり』のメインコンテンツと言ってよかったと思います。

この回でこころが敗退したことは、むしろ『笑けずり』にとっては正常化したというか、決勝に向けてアクセルがついに踏み込まれたことを示します。そういう意味では、こころの果たした役割は本当に大きく、『笑けずり』はどれだけ感謝しても感謝しきれないです(逆にスタッフの勇気ある選定が素晴らしかった)。

ぺこぱもどんどんカッコ良く見えてきましたし(これまでで一番笑ったのは松蔭寺の入院)、ここにきてオレンジサンセットもまた面白い。一方でザ・パーフェクトが「もしかして持ってる関数は1つだけ?」という気がしたり、Aマッソの緊張感が画面越しに伝わってるぐらいだったり。

正直に言って、来週の放送がまったく予想できません。いまだにマスターの存在理由こそわかりませんが、すっかり『笑けずり』に吸い込まれています。来週がこんなに楽しみだとは。


[amazonjs asin=“B00X93LJ2I” locale=“JP” title=“First Squeeze!(通常盤)“]

レコメン度:★★★★☆

(DISC1)

  1. 天まで登れ!
  2. ロマンスの途中
  3. 私が言う前に抱きしめなきゃね (MEMORIAL EDIT)
  4. 五月雨美女がさ乱れる (MEMORIAL EDIT)
  5. イジワルしないで 抱きしめてよ
  6. 初めてを経験中
  7. 裸の裸の裸のKISS
  8. アレコレしたい!
  9. ブラックバタフライ
  10. 風に吹かれて
  11. 背伸び
  12. 伊達じゃないよ うちの人生は

(DISC2)

  1. Wonderful World
  2. CHOICE & CHANCE
  3. 愛・愛・傘
  4. 生まれたてのBaby Love
  5. 選ばれし私達
  6. Ca va ? Ca va ? (サヴァサヴァ)
  7. GIRLS BE AMBITIOUS
  8. 愛のダイビング
  9. チクタク 私の旬
  10. 未来へ、さあ走り出せ!
  11. 続いていくSTORY

(DISC3)

  1. Magic of Love (J=J 2015Ver.)
  2. 香水 (J=J 2015Ver.)
  3. 鳴り始めた恋のBELL
  4. スクランブル
  5. BABY! 恋にKNOCK OUT!
  6. ラストキッス

※太字は良かったトラック


日本の音楽は好きだ。アイドルソングも嫌いじゃない。でもアイツほどに熱中はできない。ただ曲を聴ければ充分なタイプだ。これは自分語りかもしれませんが(笑)、共感いただける方も一定数いると思っております。そして、そんな方でしたら思いは同じでしょう。

「待ちに待った!」 、Juice=Juiceのアルバム『First Squeeze!』が7月に発売されました。

Juice=Juiceは、モー娘。で有名なハロープロジェクトから2013年にデビューした5人組のアイドルです。デビューシングル 「ロマンスの途中」 は、一聴でつんく♂の仕業だとわかる、かつ素晴らしい曲でした。 その後に出したシングル 「イジワルしないで 抱きしめてよ」

「裸の裸の裸のKISS」 も良かった。ここ最近こそは食指が伸びませんでしたが、つねに活動をチェックする存在で、彼女たちの活動をまとめた本作を待ち望んでいました。

というわけで、シングルを揃えられるだけでも十分すぎる『First Squeeze!』ですが、アルバム曲にも佳作が多く、大変満足のいく作品でした(ウソ。

「愛・愛・傘」は佳作どころか、2015年のナンバーワンかもしれません。 後述)。

多種多様にアレンジされた「歌謡曲」

なぜJuice=Juiceが面白いかというと、2つの理由があります。

1つ目は、つんく♂(※1)の数ある才能のうち、私の好きな種類が存分に発揮されていること。

つんく♂のメロディセンスは、「ズルい女」やモー娘。の初期作に凝縮されている、と思っています。回顧的に言えば、その感じを21世紀に復活させたのがJuice=Juiceでした。それは_「洗練されていないゴージャス感」_ と呼べるでしょうか。旋律と台詞がミックスされた、適度にリズムカルで歌いやすい曲がその特徴です。

2つ目は、これが本記事のテーマですが、 Juice=Juiceの曲のほとんどが「歌謡曲」 であるところです。だから、余計に懐かしい。

というのも、Juice=Juiceの曲には多種多様なジャンルや雰囲気が参照されています。似ている曲というのがほとんどありません。

ここで重要なのは、さまざまな資料をただコピペした訳ではなく、日本お得意の――悲運のデザイナーによって、もはやこのことは自明でなくなりましたが(※2)――独自の解釈がなされていることです。この点が、Juice=Juiceの楽曲を「歌謡曲」たらしめています。

だからといって、全ての曲がバラバラかと言えばそうでもなく、一体感のようなものもあります。これはボーカルの力、ことに宮本佳林というアイドルサイボーグ(松田聖子の21世紀版、みたいな人です多分)の力、つまりは_ハロプロ帝国_ の力でしょう。どんな曲を歌ってもちゃんと「Juice=Juiceだなー」とわかります。

「クセ」を避けた良曲揃い

本作でちょっと感じたことがありました。

ハロプロの曲って、どこかで強烈な「ハロプロ感!」みたいなのを覚えるものなんですが、それがあまりなかったんですよね。これが、より一層「歌謡曲」っぽさを感じさせました。

さきほどのハロプロ帝国の話で、つんく♂の才能のもう一つに 「どんな曲にもハロプロ感を付加できる」 というのがあります。これが、自分のようなパンピーには、ときおりクドく感じる時がありました。

Juice=Juiceの楽曲は、もしかするとハロプロファンには物足りないかもしれません。しかし、個人的にはそれで大歓迎です。普通の人でも「ああいいね」と聴ける曲が多く、少なくともドン引きはしない(笑)。

制作側としても、ハロプロから飛び出していくような、そんな存在になるよう願っているのかもしれません。その結果、完成度の高いJ-POPが詰め込まれることになりました。

(※1)この記事を書き上げたあとに、つんく♂の卒業(?)を知りました。つんく♂がトップに立たずとも、「つんく♂ジュニア」たちがちゃんと後を継いでくれるだろう。というかこの「後を継ぐ」感じがハロプロなんだと思います。どんどん宝塚に近づいている、と感じます。

(※2)いますぐ「GIRLS BE AMBITIOUS」を隠すんだ! Jetの「Are You Gonna Be My Girl」のパクリだとバレたら、ネチズンにボコボコにされてしまう!

2015年ナンバーワンかもしれない「愛・愛・傘」

というわけで、興味あらば一度はチェックしてもいいと思います、Juice=Juice。

で、以下はもうアルバム紹介でもなんでもなく、日記みたいなもんです(笑)。 「愛・愛・傘」 という曲がありまして、どっちがいいですかねー。曲調とメロディを把握するために、まずは一度音源を聴いてみましょうか。

私は、この音源を聴く前に下のライブ映像を見た派でした。そのときから良い曲だと知ってはいたのですが、音源でハマりました。そして今、もう一度ライブ映像を見てひっくり返っています。

(曲は43:12から。) この曲を聴くまでは、初期の3作のような雰囲気が好きでした。

Juice=Juiceは「エキゾティシズム」をテーマにしたアイドルグループだと思っていました。それが「愛・愛・傘」で全てフッ飛びました。 よくわからなくなりました。でもヤバい。

こんな曲を2015年に聴くとは思ってなかったです。ネットがアイドルを、というか世論を、すべてを牛耳りそうな世の中で、これほど素朴なラブソングがあっていいのでしょうか(ドラムが16ビートになってるところは今風、なぐらいです)。

この3日ほど聴きすぎたおかげで、完全に5人のボーカルが聴き分けられるようになりました。

「愛・愛・傘」においては、宮本佳林のボーカルが圧倒的です。1番のサビの最後の「この雨が止む前に」というフレーズを、こんなニュアンスで歌える16歳。経験が無いからこその、まさしくアイドル的な歌唱です。それは、だからこそ逆説的に、リアルで腐りきった心に染みこんでいきます。

もちろん、高木紗友希と金澤朋子もそれぞれ良い味があります。高木紗友希は普通に上手いのも良いんですが、この年齢にして幾分かの「不幸」を背負ったような深みのあるボーカルが好きです(「この娘だけは傷つけちゃいけない。もうたくさん傷ついたから」と思わせるような。「メンバーフルーツ」がレモンという、一人だけ「そのまま食べられない」フルーツだからか!?)。金澤朋子は「大人の色気」ってやつですよね。あるいは安心感、だと思いますが。

とりあえず、現時点でこれを越える曲が出てくる感覚がしていません。おそらく、2105年でナンバーワンだと思います。

---というわけで、アイドル史において、そして歌謡曲史において、『First Squeeze』は歴史に残るだろう、と考えております。 同時に、Juice=Juiceが楽曲だけを武器に、現在のJ-POP界に本気で殴りこみに行くことをちょっとだけ期待しつつ。セカンドアルバムも非常に楽しみです。


初回の感想と批評を書いてから3週間が経ちました。

これまでに、いらんいらん、天然ピエロ、アルドルフ、ダイキリが削られ、残り5組。

「あまりに順当すぎてつまらない」とか、「このガチ感こそNHK。どんどんやれ。でも恋愛は要らねーぞ」とか、「いや、

Aマッソ加納ちゃんがいるからまだ観てるんだ。 とにかくもっと映してくれ!」とか色々あると思いますが(内なる声なのかこれは・笑)、とりあえずは楽しく視聴しております。


初回の感想で「ガチとヤラセ」の話をさせていただきましたが、第4回まではちょっと私の記事が的外れなぐらい、まともに番組が進んでいます。

これ、実は凄いことです。出演者も演出も番組の盛り上がりを過剰に気にせず、面白い漫才をつくることに真剣になっている。恋愛要素もガチであることをわざわざ教えてくれたり(笑)、

とにかく真面目です。 それは、番組の約半分を漫才に費やしていること、ネットで完全なネタを見れること(※1)、そして講師のストイックさからもわかります。

とくに中川家による「ツカミ」の授業は、久々にスカッとしました。たったの1時間程度の講義で「こころ」の漫才が倍以上に面白くなる瞬間に立ち会えたからです。

こころは『笑けずり』にもう欠かせない存在 になってしまいまして、今後もし削られることがあれば、それが『笑けずり』の最終回です。 というか、もう_決勝が「Aマッソ、ザ・パーフェクト、こころ」の対決_ になるんじゃないか、と予想する方も多いと思われます。ここに「ぺこぱ」が割って入れば、まあそれはそれで楽しいですよね(松蔭寺さんのことをどんどん好きなります。すごい芸人ですよねこの時点で)。

次週の第5回は、当コメント欄でも話題になった「セカンドシーズンでいいから呼んでくれ」のバイきんぐが出るようで、そういう意味では、むしろ講師陣のほうが読めなくなってきてしまいました(笑)。

ザックリですが、いまはこんなところです。とりあえず現状記録だけでも。では。

(※1)下のURLから、第3回(笑い飯回)で1位を取ったAマッソの漫才も見れます。1本目、めちゃくちゃ面白かった。このシーズンで一番好きであろう。

http://www.nhk.or.jp/warakezuri/archive/story_03.html


「弁護士ってアレでしょ? たいして仕事も無い割に、暇な時間つかってお笑いの感想書いてお金もらえるんでしょ? いーーーーい仕事だなーーーーー!」 ゲスニックマガジン編集者の血が騒いでなりません。 「NHK「LIFE!」でわかるウッチャンナンチャン内村がテレビでコントをやってはイケない理由 |メディアゴン(MediaGong)」という、衝撃的な記事が公開されました。お笑い童貞、高橋維新さんの最新作です。

一部引用などというのは、こちらの編集が混じってフェアでないですから、読みづらさもあえて飲み込み、全文引用しながら反論します。

またこれで「高橋維新」流れでブログのアクセス数が増えてしまうのだけが悔しいです。KREVA論とかのほうが面白いですよー!

素人好きの童貞弁護士

2015年9月3日、内村光良(ウッチャンナンチャン)をメインに据えたNHKのコント番組「LIFE!~人生に捧げるコント~」(以下「LIFE」)が放送された。
現在、地上波から「コント番組」と銘打ったコント番組はなくなりつつある(http://mediagong.jp/?p=1028)。現在コント番組ということを前面に出している「コント番組」をやっているのは、この内村のほかには、志村けんぐらいのものである。
なぜコント番組が少なくなったか。
端的に言えば、おもしろくないからである。もっと正確な言い方をすると、「コント番組」より確実におもしろいものが他にあるからである。

なかなか魅力的な書き出しです。フリとして機能しています。

コント番組というコンセプト自体が内包するジレンマとして、「この番組はコント番組です」と銘打ってしまうと、視聴者が「今から画面の中でおもしろいことが起こるのだな」と期待してしまい、ハードルが上がってしまうというものがある。
これを回避するためのひとつの手段が、コント番組であることを隠してコントを行う「ドキュメンタリーコント」である。このドキュメンタリーコントという手法は、「めちゃイケ」や「ガキ使」に典型的に見られる(http://mediagong.jp/?p=1028)。
ここまでに述べたのはコント番組全てに共通する問題だが、内村のコント番組には内村のコント番組特有の問題点がある。
台本がガチガチ過ぎる(ように見える)のである。

ここから、「高橋維新節」とでも言うべきか、ものすごい主張が始まりました。

まず、「コントはハードルが高い」って話です。視聴者の期待がハードルを上げるなら、全てのバラエティはハードルが高いのではないでしょうか。

高橋維新さんがいつもご視聴なさってる「めちゃイケ」は、ハードルが低いのでしょうか。ならば、なぜ高橋維新さんはいつも一所懸命に「めちゃイケ」をご批判されていらっしゃるのでしょうか。

歩みよれば、高橋維新さんは「番組に対するハードルではない。ボケに対するハードルなのだ。ボケが起きても「ああ、これは台本上のボケなんだな」となるからハードルが上がるのである」と仰られるでしょう。

ところで。そもそも 「ハードルが上がる」ことの何が悪いのでしょうか。 下がりきったハードルを軽く飛び越える番組を、高橋維新さんはご視聴されたいのですか。

「ヤラセ(台本)はイヤだ。ガチがいい。少なくともヤラセ(台本)だとバレないようにしてほしい」 というのは、

「AV女優はイヤだ。素人女子高生がいい。少なくともAV女優だとバレないようにウブでいてほしい」 というのと同じように聞こえます(まあ、少しは気持ちわかるぜ、維新ちゃん)。 でも、お笑いの批評を書くような方がこのレベルって、いくらなんでも酷くないですか?

薄すぎる「緊張と緩和」

内村は、芝居が巧い。演技力が高い。元は演劇の修業をしていただけあって、本職の役者に匹敵するほどに巧い。だから、台本を忠実に守れる。監督や脚本家の要求を過不足なくこなすことができる。コントにかける姿勢も真摯であるため、台詞も一字一句正確に覚える。
「芸人」と呼ばれるジャンルの演者は、演技力や芝居に対する真面目さの振れ幅が大きく、内村ほど芝居が巧い人(宮迫博之・岡村隆史・田中直樹・塚地武雅など)もいれば、そこまででない人もいる。内村ほど真剣に台詞を覚える人もいれば、そうでない人もいる。そのため、台本通りの演技が求められるシリアスな芝居では、人を選ぶことになる。
しかし、コントのようなお笑いの芝居においては、台本を忠実に守れること、台本を忠実に守ることは、逆に弊害を生む。台本を忠実に守るということは、逆の見方をすると台本から一歩も外に出ないということなので、
台本がつまらなかった場合はどうにもならない。

高橋維新さんの大好きな「めちゃイケ」は、「アメトーーク」は、台本がつまらなくてもどうにかなっているんでしょうか。

トチリやカミからくる笑いも起きなくなる。
これらの笑いは、台本が実現された場合の「狙い通り」の笑いとは種類の違う笑いであり、アクセントになるのだが、台本が守られるとこの「アクセント」が皆無になるので、笑いも一本調子になる。結果、見ている方も飽きやすい。
また、 台本の台詞が忠実に守られた状態で劇が展開すると、緊張感が生じてしまう。
笑いにおいて緊張は大敵であり、緊張それ自体はフリの役割しか果たさない。
「緊張と緩和」理論からも分かる通り、その後「緩和」というボケが来ないと笑いは起きないのであるが、台本や台詞がよどみなく進行すると、緊張しっぱなしになってしまうのである。無論、台本で緩和を足しておく手段もあるが、
本当に起きたハプニングよりは予定調和感が生じるのは否めない。
台本が守られたコントは、笑いにおける「奇襲」や「意外性」をも減退させるのである。演者たちにはもっとリラックスしている様子を見せてもらった方が、学校における友達との会話に参加しているような安心感と自然な笑いを視聴者に提供することができる。
そのような意味で、台本をガチガチに守ることは、逆説的に笑いの本質に悖る所為である。台本は、できることなら緩々の方がいいし、台本を守るよりおもしろい方向性が本番中に見えたのならそちらの方向に進んだ方がよい。
その方が、トチリやカミというアクセントの笑いも生じやすくなる。台本がつまらなかった場合でもなんとかできる。演者も「台本を守らなければ」という緊張感がなくなってリラックスするので、客もリラックスして笑いが生じやすくなる。ハプニングも起きやすい。

「悖る」という難しい言葉を使うも内容はしょーもない、というまさしく「緊張と緩和」を実践しておられます。高橋維新さんは、コントを見て一度も笑ったことがないのでしょうか。台本通りに進んだコンテンツで、お笑いにはなられなかったのでしょうか。

もし、 「緊張=台本通りに進むこと」、「緩和=ハプニング」と捉えているとすれば、これほど薄いお笑い理論もありません。 ただ単純に高橋維新さんがハメ撮りを愛してるだけです。

また、「トチリやカミ」をしきりに強調されておられますが、この種の笑いをコントの笑いと同列に捉えているのは、あまりに愛情が無いと思います。私は吃音の気がありますが、それで笑われても「よし、俺は笑いを取れる」とは思わないです。

というか、「客もリラックスして」って、「LIFE!」はスタジオコントですからね。リラックスも何も、って感じです。

アンタッチャブルは、漫才の台本をザックリとしか作らず、一字一句台詞を指定してはいないという。「オレたちひょうきん族」(フジテレビ・1989〜1989)にも、事前に用意するのはシチュエーションだけで、あとは明石家さんまに好き勝手に暴れてもらうというコントがあった。
「ダウンタウンのごっつええ感じ」でも、演者のアドリブに任されている部分の比重が非常に大きかった。笑いにおいては、台本という予定調和は弊害を生むことの方が多いのである。
内村にとっては、台本を守れるだけの高い演技力があったことが逆に悲劇であった。だから、
内村のコントは台本を守るだけの一本調子のものになり、視聴者も離れていったのである。
内村のこの高い演技力は、彼が芸人よりも役者に向いていることを示している。
もちろん、台本そのものがおもしろければそれを忠実に再現することによって大きな笑いを生み出すことは可能なのだが、そのような台本は極めて稀であるというのが実情である。リラックスした芸人たちの自由に任せた方が、おもしろいものが生まれる可能性が高いのである。

「台本を守る」=「一本調子」という論理が、やはり高橋維新さんの浅さを露呈しています。どんだけハメ撮り好きなんだ、って話です。というか、

ウッチャンの魅力って「台本を守るだけ」ではなく、「台本を抑えつつ、臨機応変にも対応する」ところじゃないですか? 先日の「LIFE!」生放送では、日本代表が3−0で勝ったことに触れたり、VTR振りを女マンでやったりしていますが、どうでしょうか。

笑いが生まれる可能性が高いほうを取るあたり、高橋維新さんはリアリストなのかもしれません。しかし、

その結果生まれる笑いって、明日も明後日も、来年になっても「あれは面白かったなー」って思い出せるような笑いなんでしょうか? 芸人たちの自由に任せたお笑いにそれぐらいのインパクトが出ることって、それこそ極めて稀でしょう。

今回放映された「LIFE」も、このような台本ガチガチのコントの問題点が全部出ている。演者は、主役の内村のほか、役者と、ココリコ田中・ドランクドラゴン塚地という内村に匹敵する演技派芸人で固められており、台本を忠実に守ることが志向されている。
視聴者の眼前に展開されるのは「役者のコント」に過ぎず、「芸人のコント」ではない。
大しておもしろくない台本を忠実に守らされている田中や塚地を見ていると、不憫にさえなってくる。この2人は役者のみならず芸人としてのポテンシャルも高いのだから、「芸人のコント」をもっと自由にやらせてやればいいのになと思う。
笑い所で人工の笑い声を足すという演出も古臭いだけである。このような演出は、裏を返せば、作り手が「笑い所が分かりにくい」と考えているということである。自分でおもしろいと自信が持てない作品を世に出すのはいかがなものだろうか。
今回独自の試みとして、生放送で視聴者に投票をしてもらい、その結果いかんでコントの内容が変わるという部分があった。出演者がみな演技派なので、生放送の部分も収録済みの部分も芝居のクオリティが全く変わらなかったのは確かだが、元の台本が大して面白くないことに代わりはないので利点としては生かせていなかった。
田中扮するプラス車掌というキャラクターが他の演者の変なところを暴露するというコーナーもあったのだが、NHKなので民放の同種の企画と比べれば暴露内容もそれを受けた演者のリアクションも控え目だった。なので、暴露の内容を聞いて笑っている演者たちを見ても、芝居ではないかという疑念が消えなかった。

笑い声を足すことに対する不満ってのは、もう本当に時代遅れというか、じゃあ全部そうじゃないですか! 高橋維新さんに革命を起こしてほしいですよ(笑)。

あと、今回の生放送って本当に「芝居のクオリティが全く変わらなかった」ですかね?

優しすぎですよ高橋さん(笑)。むしろ、生放送に慣れてる羽鳥アナ(とウッチャン)以外は、みんな緊張しているように見えました。ファン的には、それはそれで面白かったんですが、すこしスベってる感もありましたよね?(笑・急にLIFE批判側になったりする)

「笑うこと」だけが「お笑い」なのか?

という感じで最後まで読みましたが、高橋維新さんが「芸人だらけのハプニング大会」をお好きだということはわかりました。

ザックリ言ってしまえば、高橋維新さんは「ガチ」と「ヤラセ」への耐性がちょっと足りないんじゃないか、と思います。あとは、前記事でも書きましたが、とにかく_笑いのツボが少なすぎます。_ 貪欲さが無いです。別に問題はありませんが、ライターとしては失格だと思います。

ここでやっと『LIFE!』に対する自分の視点を書いてみます。『LIFE!』肯定側の意見です。

『LIFE!』は、皮肉にも高橋維新さんのような凝り固まった「お笑い像」をほぐしていくような番組です。 これは高橋維新さんだけの問題でなく、M-1以降の、ひな壇以降の、バラエティに対するひとつのアンチでもあります。お笑いの幅が狭くなってしまったことに対するアンチです。

というのは、現代のバラエティは、 普遍化 (どんな番組にもお笑いの要素が入っている。たとえばトチリやカミ、ですが)と、 島宇宙化 (芸人と芸人好きな人にしか伝わらない、いわゆる身内感)が極端になっている。というのが私の見立てです(ここ、また別の機会に書きたいんですが、まとまらず)。

少し焦点がズレますけれど、高橋維新さんの言葉を使うならば、最近のバラエティは「ハードルの下がった笑い」と「芸人たちの自由な笑い」しかない、とも言えます。笑いの種類が限定されてきている訳です。

この状況を崩しつつある番組のひとつが、(高橋維新さんはお嫌いな言葉かと存じますが) 「良質なコント」 あるいは 「バカ笑いするタイプじゃない笑い」 を提供してくれる『LIFE!』ではないでしょうか。 違法であることをお許しください。2013年8月20日に放送された『LIFE!』シーズン1。42:00から_「カッパのおじさん」_ というコントがあります。 これを見ても、やはり「台本ガチガチのコント」は面白くないでしょうか。

泣きながらも少し笑ってしまうことは、「面白さ」のどのカテゴリ、ランクに属するのでしょうか。 こういったコンテンツは、少なくとも高橋維新さんの仰るような「下げたハードル」や「芸人の自由」でつくり上げることはできません。

LIFE!人生に捧げるコントseries-1 #2

投稿者ainsoph1225 今見ても面白いです。

やっぱり面白いですよ、コント。コント番組より面白いものなんて、そうそうないです。

あ、まだ一文だけ残っていました。

内村に才能と実力があるのは認めるが、だからこそ、テレビのコントはやらない方がいいのではないか。

うるせー! 二度とそのキーボードに触れるな!