koboriakira.com

89年生まれの私にとって、「インターネットに接続する」というのは「ヤフーに接続する」という意味と同じでして、ほぼ反射的にヤフーのトップニュースをチェックするのが日常になっています。

一応大人なので経済面あたりもチェックはするのですが、なんだかんだで見てしまうのがエンタメで(笑)、「アンジェリカ、本当は良いヤツだったんだ!」とか「50セント破産だって!ガハハ!」とか、品の無い毎日を送っていると、ときどきぶつかるのが「高橋維新 」さんという弁護士の方の記事です。

DJに興味がない濱口優がDJになりきってカッコつける岡村隆史をバカにする「めちゃイケ」の企画は中途半端」、「<薄毛芸人を笑う「アメトーーク」は差別か>病気や障害でさえ本人が許容すれば「笑われること」は許される」などのタイトルから、「ああ、読む価値も無いタイプのやつかー」とは分かっているのですが、やはり読んでしまうのが愚人の性。そして現在、こんな記事を書いてしまっております。

『ENGEIグランドスラム』第1回への批判への批判

この高橋さんという方は「メディアゴン(MediaGong) |メディアニュースとメディア批評」という「メディア批評・メディア評論に特化したメディア専門家によるメディアニュースサイト」に在籍されている方で、87年生まれの少し年上です。バラエティ番組を中心にいろいろな批評を書いています。

で、このエントリで扱いたいのは『ENGEIグランドスラム』の批評です。まず、第1回の批評として「<フジテレビ「ENGEIグランドスラム」の無駄遣い>なぜ「ナインティナイン」は漫才をやらないのか?」というレビューをしています。

しかし、ここでの主張は自分にとって全て的外れにしか感じず、上述の通り、ヤフーからアクセスできる記事であることから、「もしかして、バラエティ批評で一番読まれてるのがこれなのでは・・? 」と震え上がっています。たとえば、第1回の記事では、

芸人のネタの部分は、ほとんど編集をしていない「撮って出し」の状態だった。これでは、生放送で全部が丸のままお茶の間に流れる「THE MANZAI」や「キングオブコント」と一緒である。しかし、 生放送ではない形でやるからには、編集をしてほしい。
そして、編集をすること前提で、番組側が一緒になって事前に芸人のネタをブラッシュアップしてほしい。

と書いており、『ENGEI〜』のネタを『めちゃイケ』の「笑わず嫌い王決定戦」のようにすべきだ、という主張があります。これだけで既に赤信号が灯るのですが、この2つの企画は全く異なる性質のものです

たとえば、「笑わず〜」が「まだ売れてない芸人」を扱うのに対し、『ENGEI〜』はすでに一定の地位を築いた芸人が出てきます。「笑わず〜」が「笑えない芸人が一組いる」という前提を持っているのに対し、『ENGEI〜』は「たくさん笑いをとってきた芸人が出てくる」という前提があります。

その結果、どのような相違点があるかというと、それは _「視聴者の安心感」_のようなものです。「笑わず〜」に出てくる芸人は、そのネタだけに全てを任せることは難しい。むしろ「笑えない芸人がいる」という企画の中にネタを組み込むことで相乗効果が生まれる。

しかし、『ENGEI〜』は純粋に「もうネタをやらなくてもいいような芸人の(新作)ネタが見れる」というのが第一のコンセプトにあります。よって、

例えば、「めちゃイケ」ではよくやるが、ギャグがすべったときに大きく「?」の字幕を入れるとか、お客さんが引いてしまうようなことをやってしまったときに効果音と共に大きく「×」の字幕を入れるとかが、フォローになる。

こんな事したら、芸人に失礼である以前に、番組として成立しません。そして、ネタを重視する番組だからこそ、

ネタ終わりでは、見ていたナイナイと芸人とをガッツリ絡ませる。[…]フリートークに客を入れると芸人がヘンに萎縮してしまう。

こんなことやってる映像は全く想像できません。というか、「 フリートークに客を入れると芸人がヘンに萎縮してしまう」ってどういうことだよ・・。高橋さん、弁護士としての仕事に集中なさったほうが良いと思います。

ついでに、「ナイナイを司会に置く意味」というのは、あのクラスを芸人を仕切る(紹介する)ときに適切なのがナイナイだからだと思いますし、ナイナイもそれを分かって、意図的にベーシックなコメントを挟んでいます。

『ENGEIグランドスラム』第2回への批判への批判

第1回の批評に対して特に反応が無かったのでしょう。高橋さんは気を大きくされて、先日放送された第2回に批評として「<フジ「ENGEIグランドスラム」>ナイナイはMCとしての仕事が「あの程度」ならネタをやるべきだ」という記事をアップしました。

で、この記事が結果的にこのエントリの発火装置として機能した訳ですが、

前回の放映につき筆者が指摘した問題点(フジテレビ「ENGEIグランドスラム」の無駄遣い
http://mediagong.jp/?p=9977)は以下の6点である。 1.既出ネタの使い回しが多い 2.ナインティナインがネタをやっていない
3.ナインティナインが芸人と絡まず、合間合間のコメントもほとんど使われていないので、司会としている意味がない
4.観客が入っている(ので収録の終了時間を配慮する必要があり、ナインティナインと長いこと絡ませることができない)
5.ネタについて番組やスタッフが事前に口を出してブラッシュアップしている形跡がない 6.芸人のネタ部分はほとんど編集されておらず、垂れ流しになっている
今回、多少なりとも改善があったのは1.ぐらいなので、前回からほとんど進歩がない。9月に第3回の放送が決まっているということなので、今のままである程度数字がとれているのだろうが、
ここに書いてあることを全て改善すれば確実におもしろくなる のだから、次はなんとかしてほしい。

と、「お、マジか! じゃあやってみようぜ! 絶対に面白くなるんだよな?」とアツくなってしまうのが私の悪い癖(「杉下右京」風に)。そして、暴走は止まらず、

テレビは、視聴者を喜ばすためのものであり、プロの芸人も客を楽しませるための存在である。決してテメエの好きなことができる媒体ではないのである。客を楽しませるためだったら、一芸人の作家性などクソ喰らえである。

文章自体は正論ながら、「えっと、そういう葛藤を乗り越えた芸人のネタが見れるのが『ENGEIグランドスラム』なのでは?

『作家性』という言葉の意味をもう少し深く考えられたほうがよろしいのでは?」と感じてしまいます。テレビマンや、いや、高橋さんご本人には作家性は無いのでしょうか?

良いように解釈すれば、高橋さんは「一人で作るより、多くのプロが考えたほうが面白くなるよ」と言いたいのだと思います。しかし、『ENGEI〜』は「売れてる芸人が考えたネタ」を見せる番組であり、視聴者もそれを望んでいます。番組やプロデューサーの「作家性」こそ、この番組には不要です。

この点は高橋さんに対する批判以上に強調しておきたいですが、 _『ENGEI〜』ほどネタをちゃんと見せてくれる番組は現在ありません。_これを『M-1』や『THEMANZAi』のようなコンテスト形式(視聴者が真面目にネタを批評する形式)にしたり、ネタ中にテロップを入れて笑いどころを番組側が作ったりするなどの工夫はもちろん可能です。しかし、そういった工夫をせず、番組の色を全く出さなかったことが『ENGEI〜』の素晴らしさであり、逆説的に制作側の熱意を感じます。

高橋さんの一番ヒドいところは「 俺はバラエティの裏側も分かってるんだぜ。笑いを知ってるぜ」という童貞のような権威を持ったまま文章を書き殴っているところです。そして、あまりに高橋さんご本人の「笑いのツボ」が狭すぎることです。おそらく、単純にバラエティがそれほど好きではないんだと思います。

とりあえず、『ENGEIグランドスラム』に対して「番組側が一緒になって事前に芸人のネタをブラッシュアップしてほしい」と書いているように、高橋さんもウェブ編集者と一緒に記事をブラッシュアップする必要があるかと思います。

気ままな批判への気ままな批判

以上が、高橋さんに対する批判です。個人的には、お笑いに対する愛情が全く感じられない文章にもイラつくのですが、それは本当に個人的な理由です。あとは、好き勝手書いている高橋さんに合わせて、自分も好き勝手にコメントしてスッキリして仕舞いに。

【2】出場者寸評 2.チュートリアル いいんじゃない?
おもしろかったので特に文句はない。福田は芸無しでテレビでは扱いにくい芸人なのだが、それはネタへの文句ではない。

「おもしろかった」が「文句はない」に繋がるなら、この人が褒めてくれるレベルってどれほどなんだよ!

あと、福田さんはな、MotoGPのコメンテーターとしてイキイキとされてるんだ!

4.テツandトモ えらく営業慣れしている感じは伝わってくるが、
動きで笑いをとるのは歳をとると肉体的にも辛くなるし、見ている方としても精神的に辛くなる
ので、いつか新しいのを見つけた方がいいと思う。「笑わず嫌い」の時みたいに、同じ動きを強みとしている岡村と絡めば絶対におもしろくなるのに、それができていないのがこの番組の問題なのである。
3.ますだおかだ なんというか、全体的にしょうもなかった。 筆者は、増田がこのコンビのボケだというのは初めて知った
のだが、岡田のスベリキャラの方がテレビでは定着しているから、増田がボケているのを見るとなんか無理している感じがして痛々しい。 […] 8.シソンヌ
見たことある。 しかし、いいと思う。

高橋さんのご自宅には、最近テレビが導入されたんだろうな。

9.トレンディエンジェル
ハゲの「フラ」を押し過ぎなので、もっとこのフラが「自然」に生きる内容にしないと客の飽きが早いと思う。「トレンディエンジェル」というコンビ名からしてハゲのフラがあるからこそズレが生まれているので、コンビ名は変えるべきであるし、「お兄さん、トレンディだね。うん、トレンディエンジェル」という冒頭のギャグや「WaT小池徹平君と同じ29歳」というツカミもやめるべきである。全部実現すると全く別物のコンビになりそうだけど。

全部実現すると全く別物のコンビになりそうだけど(笑)。

14.柳原可奈子 バブルを引きずっている女子をバカにする一人コント。
登場人物は、柳原と、その対面の話し相手と、もう一人フミコさんという人がいたのだが、フミコさんの存在や位置が非常に分かりにくいセットだったので、もう一台机か椅子かを置いておくべきだったと思う。
柳原の顔は、他のブスが売り物の女芸人と比べると小ぎれいなので、「勘違い発言」がマジで鼻についてしまうことがあるのが難点か。

セットに対する意見が的確なのに、なぜコントのテーマが掴めてないんだろう。

17.渡辺直美 くどい。ずっとデブのブサイクがキレのあるダンスをしているというズレ1本でゴリ押ししてくるため、こちらの飽きが早い。

うるせぇコノヤロー!

渡辺直美はブサイクじゃないし、「ずっとデブのブサイクがキレのあるダンスをしているというズレ1本でゴリ押ししてくる」って、文章だけ見ればめちゃくちゃ面白いと思うけれど。

18.海原やすよ・ともこ
スナックのママと女の子の会話みたいだった。うん、まあ、いいんじゃないかな、という感じ。セットのことを「パチンコみたい」とツッコめていたのは流石関西のベテランである。
ネタという予定調和をやるに止まらず、こういう笑いがもっと欲しいのである。

編集の件はどこにいったんだよ!


先日、HDDの掃除をしていたら、大学時代のレポートをいくつか発見した。

当時は社会科学部という、「社会学、ではないの?」とよく聞かれた学部にいたのだが、研究テーマはあまり一貫していなかった。メディア論を中心にしていたつもりだが、その根底には「自己分析」のようなものもつきまとい、つまるところ「こじらせ」と言えば可愛いが、学問を探求する人間としては少し不適当だったように思う。

そんな話はどうでもいい。以下に載せるのは、そのときのレポートだ(※1)。内容は「相対主義について」、そしてそのテーマから派生した「私は誰かを、誰かは私を理解できるか?」という、「ああ、そういうこと考える年頃だよねー!」ってやつである。少し恥ずかしいが、ここに投稿すれば、もう失くすことはないだろう。

文章は一部加筆修正しているが、21歳の頃の率直な考え方には手を加えていない(タイトルは変更した。前タイトルは「翻訳の上手な戸田奈津子はつまらない」という、ちょっとサブいタイトリングだった)。そして、26歳の私は、21歳の頃の筆者にいまだに共感している。

そして、いくつになっても、こういう事を書いたり考えたりするのが好きなんだな、と笑ってしまう。

(※1)本当はもっと面白いレポートもあるのだが、それは合作のため、共作者の許可をもらわないといけない。まあ内容は2015年現在となっては「当たり前じゃん」って内容なのだが。

はじめに

この授業中、私が最近よく考えていたことがある。 それは「極端な相対主義が行き着く先のニヒリズム」について、あるいは 「私たちは真に理解しあう事ができるかどうか」 ということだ。 本レポートでは、授業の内容を要約しつつ、上の問題について考察をしてみたいと思う。

<主観>と<客観>―20世紀までの哲学史―

私がこの授業の盛り上がりを感じたのは、デイヴィドソンの<解釈>だった。 要点を挙げれば、

「相手の信念を完全に共有できずとも、これを解釈することはできる」

というのがデイヴィドソンの主張である。私にとって、これはとても共感できた。では、彼以前の哲学がどのような道を辿ったのかをまず確認していこう。

まず、哲学は「この世界はどのように存在しているか?」という問いから始まった。哲学者は世界の起源を辿り、ある者は水が万物の根源だと主張したり、またある者は数字が万物の根源であると主張するなどした。これを「存在論的哲学」という。

この哲学にはある前提がある。それは唯一の真理が存在するということだ。つまり、今日は「万物の根源は水である」となっているが、明日になれば「万物の根源は数字である」と変わったりしないことを前提としているのだ。

しかし、誰もが納得する真理なんてそうそう無い。とくに、16,17世紀には自然科学の発達も相まって、さまざまな真理が同時に出てきたり、これまで真理と思われていたものが疑問視されるようにもなった。

この時代に一世を風靡したのが、デカルトによる認識論的転回だ。

デカルトは、哲学の問いを「世界はどのように存在するか?」でなく、「世界の存在をどのように認識しているか?」と更新した。重要なのは、この転回によって、哲学が真理ではなく真理を探す「わたし」のことを重要視する学問になったことだ。これを認識論的哲学という。

存在論的哲学と認識論的哲学の大きな違いは、「存在―」が世界を<客観>して捉えることに対し、「認識ー」は私たちが取りはずすことのできない<主観>を思考の過程に含め、主観と客観がどのように一致する/しないかを考えたことである。

このように、「認識―」は<主観>を重要な要素として取り上げた訳だが、これはまた次の転回を生むことになる。それは、内部の<主観>を外部へ表現する際に用いる言語、つまりことばについてだ。

というのも、言葉は自身の<主観>を表すための極めて私的な道具であり、これを解明しない限り、どんな言語も虚しいものになってしまう。

ゆえに言語はとても曖昧な存在だ。これを解消しようと、ラッセルは言語を極限まで記号化しようとしたし、ヴィトゲンシュタインは哲学を「言語における論理の誤解」とした上で、言語として語りうることがそのまま世界の存在と対応する(言葉で説明できないものは、そもそも存在しない)と主張した。

こうして、言語の適切さを問題とする哲学である言語論的哲学が生まれつつあった。つまり、「認識―」から出た「世界の存在をどのように認識しているか?」という問いに、「世界を認識するための言葉は、どのように用いられているか?」という問いが追加されたのである。

この「言語―」は、20世紀の英米哲学で、大きな進展を見せることになる。

他者は理解できない?―20世紀英米哲学―

クワインは、人間が言語の意味を理解して使用する過程を分析することで、必ずしも同じ意味を共有せずともコミュニケーションは成立することを発見した(根本的翻訳)。さまざまな言語は、全てがある同一の意味を持っているわけでなく、多かれ少なかれ異なる意味があり、人間は自分の持つ概念枠において正しいとする解釈を行っている。

この主張は、単なる言語についての知識にとどまらない。言語の解釈は、世界の解釈につながる。つまり、世界の解釈も複数存在し、各々が自身なりの「正しい解釈」を持っている。このようにクワインは考えたであろう。

私なりに言い変えれば、クワインは<主観>とは何であるかを徹底的に白日のもとに晒した。それは次のように言えるだろう。<主観>はひとりよがりであり、そのような<主観>を誰もが持っているのだから、私と彼/彼女の頭の中(=概念枠)は異なるのだ。だから、

私の<主観>は、彼/彼女には伝わることは無く、伝わったとしても、それは単にコミュニケーションが成立しただけのことである。

クワインの考え方は、現代においても理解されやすい考え方だろう。**私も正しいし、相手も正しい。**これは私たちが道徳として学ぶことのひとつでもある。

しかし、それは次のような悩みを一緒に連れてくる。それは、私たちは、それぞれが異なる「正しさ」を持つとき、ある同一の「正しさ」を共有することができない、という悩みだ。これが相対主義であり、ニヒリズムである。

つまり、クワインが意図していたかどうかは別として、クワインの考え方は自然と「他者を完全に理解することはできない」という絶望を運んできているように私には思えるのだ。

<解釈>による他者理解―デイヴィドソンの哲学―

そこに、デイヴィドソンが登場する。彼は師であるクワインの概念枠について、その存在を確かめることができないと主張した。そして、ある言葉に対する相手の信念について、完全にそれを共有することは出来ずとも、相手がおそらく自分と似たようなことを考えているだろう、などと<解釈>することはできると主張した。 デイヴィドソンは、これを「“ガヴァガイ”は、ウサギがいるとき、その場合に限り、真である」と表現した。

この考え方は、次の点で重要だ。 デイヴィドソン流に相手の信念を<解釈>しようとするとき、それは相手の信念の完全な共有を断念したことを表している。

つまり、必然的に「他者は、自分とは異なる考え方を持っている」ことを前提としないとならないのだ。

しかし、それは極端なニヒリズムではない。なぜなら、異なる考え方だからこそ、誰かの「正しさ」が認められることはないし、自分の「正しさ」を守ってもらうこともできない。これを、デイヴィドソンは「自らの『正しさ』が、他者の『正しさ』と同じことは有り得ない」と主張している。

「僕も貴方も正しい、だから交わることはないだろう」この考えは一見すると、至極真っ当に思える。しかし、デイヴィドソンのように、「僕も貴方も正しくはない。しかし交わることはできる」と考えたほうが適当ではないか。

この考え方によって、デイヴィドソンは相対主義の抱えるニヒリズムを解消したと主張した。

フッサールの「妥当」―おわりに―

最後に、上記の考えを補足するものとして、フッサールの<妥当>という用語を持ち出したい。

竹田青嗣は、フッサールの<妥当>について次のようにまとめている。

主観どうしの具体的な関係の外側に、客観的真理があって、それが見つけ出されるのではない。「ほんとう」は、関係の中から、関係によって創り出される。
「真理」、「ほんとう」は、それ自体として存在するのではなく、主観の間で、妥当、納得、相互了解の努力によってのみ導かれる。従って「真理」、「ほんとう」の定立は、主観-客観の「一致」の問題ではなく、主観の間で妥当を作りうるかどうかという「可能性」の問題である。
妥当を作り出す「可能性」の前提となるのは、生きた主観どうしが、生に対するポジティブな(能動的な)欲望を持っていることである。

ここで言われる<妥当>は、デイヴィドソンの唱える「解釈」とほとんど同じ意味ではないだろうか。それは、<妥当>も<解釈>も悲観的な意味で用いられていないことが大きな理由だ。仕方なく妥当(解釈)するのでなく、私たちは積極的に妥当(解釈)できるのである。

竹田は、<妥当>に対して、もうひとつ素晴らしい示唆を残している。

信念の”独我論”を破る要件はただひとつである。それはつまり、自己の信念を他のさまざまな主観のうちに投げ出して、その間で「妥当」(相互の納得)を成立させていくプロセスの有無にかかっている。

デイヴィドソンの言う「自らの『正しさ』からでしか正しいことは考えられない」という主張を発展させるなら、その「正しいこと」を他者の<解釈>に委ねることで、自らの信念が現実と整合性をもつ可能性が出てくるのだ。

これらの話は、「結局のところ、話せば分かる、ってことだよね」と、まさに<解釈>されてしまうかもしれない。もうひとつ、補足をして終わりとしよう。

デイヴィドソンは、<生きたメタファー>についても語っている。合理的な発言から逸脱しているような表現(生きたメタファー)は、世界を解釈するための新しい詩的表現であるのだ、と。

これは、自分の信念を表現するには、社会に存在するボキャブラリーだけでは表現することが出来ないことを前提としている。なるほど、私の「めっちゃ痛い」は、他者の「めっちゃ痛い」とは異なる。つまり、より高度な相互理解のためには、この<生きたメタファー>を<解釈>しあうことが不可欠なのである。

単に「話せば分かる」と思っていても、そのほとんどは実際のところ、私たちから生まれた言葉ではないことが多い。ただの記号のやりとりに終始し、私たちの<解釈>が活かされていない対話も存在する。

他者を深いレベルで<解釈>するには、私たちができる限りの<生きたメタファー>を交換させることが重要なのだ。

ときに上手く<解釈>できずともいいじゃないか。だからこそ希望が持てる。


女子W杯決勝トーナメント、アメリカとの決勝戦。日本は 2−5 で負けてしまいました。

これほど「たられば」の多い試合は無いんじゃないか、というような展開で、「3,4失点目がなければ」とか「2点目を入れた後の失点がなければ」とか「菅澤のヘッドが良いところに決まっていれば」とか、色々と妄想してしまいました。とはいえ、準優勝は凄い結果です。今年はアメリカが強すぎました。

面白い場面は少なかったのですが、一応記録としてエントリを書いておこうと思います。

アメリカの攻撃、デザインされたセットプレー

まず全体的な印象として、アメリカのほうが日本より良いプレーを続けていました。いわゆる「球際の強さ」や、とくに日本のプレスに対しての落ち着いたプレーなど、1対1においてアメリカの選手は日本の選手より良いプレーをしたと思います。

それで、今回の試合はまさかの セットプレーで3失点 ということで、あらためてセットプレーの怖さを思い知らされました。たとえば、よく言われることで「現代サッカーの得点の3割はセットプレー」という話があります。

現代サッカーの得点は、セットプレーが30%、カウンターアタックが30%、ミスやアクシデント絡みが20%で、チームのスタイルを発揮したものは20%と、曹は分類している。
“湘南スタイル”でのゴールは2割弱!?スタイルに酔わない曹貴裁と選手達。(2/3) [JリーグPRESS] - Number Web -
ナンバー

また、「セットプレーの重要性。再考 | いいとこ取り! | スポーツナビ+」という記事では、

セットプレーがいかに「デザインしやすい(計画的に行いやすい)プレー」であるか を説明しています。普通のシュートは「常に動いている状態」だから様々な状況が関連するためデータとして処理するのが困難だが、セットプレー(とくにCK)は「ある場所に止まった状態」だからデータも扱いやすい。データとして処理できれば、より確率の高いプレーを計画して行動に起こすことができる。

まさしく今回のセットプレーからの失点は、すべてデザインされたものでした。「アメリカはNFLの国だ。だからデザインされたプレー(セットプレー)と親和性があるのだ」とか言いたくなりますね。

神出鬼没のロイド

1,2失点目は、どちらもロイドに決められました。1失点目は「グラウンダーのボールに、マークのついていないロイドが走り込んでそのまま決める」、2点目は「グラウンダーのボールをニアにいる選手が弾いたところを、後ろから上がってきたロイドが決める」というパターンです。どちらも、

ロイドがマークのつかない場所から走りこんできました。 日本のディフェンスは一歩遅れてしまいました。

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これが1失点目。日本は10人全員が下がって守っていたのですが、ペナルティエリア外から走りこんできたロイドには対応できませんでした。2失点目もほぼ同様。ニアサイドで競わせた後のこぼれ球をロイドに決められてしまいました。

p3 p4 ちなみにどちらの場面でも、ロイドをチェックしていたのは岩清水でした。

岩清水は「立ち上がりの失点は自分のせいで、チームに申し訳ない。ロイドが来るのは分かっていたのに、予想以上のスピードだった」と目を赤くした。
岩清水が大泣き「立ち上がりの失点は自分のせい」 - 日本代表 :
日刊スポーツ

3失点目は自身のクリアミスが原因だったことを含め、彼女の気持ちを想像すると非常に辛いです。

リオ五輪に向けて

という感じで、セットプレーでガッツリやられてしまった決勝でした。しかし、試合の反省点や今後の方向性は「セットプレーを直そう」ではないとも感じました。

というのも、このW杯を見て思ったのは、なでしこジャパンがドイツ大会で見せたようなパスサッカーをどこを国も取り入れようとしていて、

もはやパスサッカーは日本だけの武器ではなくなった 、ということでした。たとえば、自分が印象的だったのが前半23分のシーンです。

p5 p6 p7 p8 p9 p10 p11

日本のディフェンスが完全に無効化されていた一連のプレーで、とても良かったと思います。日本のプレスがかかっても、それをきっちり回避しながらパスを繋げる。優勝にふさわしいチームのプレーでした。

そういう意味では、 「高い個人技を持ったまま組織力を身につけたアメリカ」にどうすれば対抗できるんだろうか? という悩みが顕在化した試合でした。日本の選手一人一人のレベルアップ、ないしはさらなる組織力の向上。なでしこがこれからどのように成長すべきなのか、答えは一つではないにせよ、何か対策を立てないとマズいことはわかりました。

一度はなでしこリーグも行ってみようか

ただ、その「対策」について、「また4年後の優勝目指して頑張ってくれ!」では済まない、ということも明らかになっています。それは、ちょうど決勝あたりから話題になっている選手たちの待遇です。

なでしこたちの「待遇」は4年前より良くなったか|SPORTSセカンド・オピニオン|ダイヤモンド・オンライン」では、代表選手でもサッカーだけに集中できているのは少ないことが書かれています。そういう意味では、強化のための最初のステップはやっぱり「国内リーグの活性化」なのかもしれません。

週末から、なでしこリーグも再開するようで、東京がホームの「日テレ・ベレーザ」には、今大会で大活躍した有吉や、一番悔しい思いをした岩清水、あとボンバーヘッドの元代表・荒川もいます(笑)。今シーズンは一度ぐらい現地で観戦して、お金を落とそうかなと思います。

とりあえず、ものすごい楽しませてもらいました。 お疲れ様なでしこ!


女子W杯決勝トーナメント、イングランドの準決勝。日本は 2−1 で勝ちました。

オーストラリアとの感動的な準々決勝に続いて、今回は内容こそよくわからないものの勝ちました。相手監督に「日本は世界チャンピオンだ。今夜、その理由が分かった。試合の中で何が起きても踏ん張るすべを見つけてしまう」と言わしめる、これがなでしこです。

何にせよ、なでしこジャパンのサッカーを最大限見れることが確定しました。泣いても笑っても最後の試合。持てる力を全て出してアメリカにぶつかっていってほしいです。

日本・アメリカの予想スタメンと、スカウティング

決勝相手のアメリカは、決勝に勝ち上がるだけあって、基本的は隙の無いチームです。かつ、日本にとっては苦手な部類のチームだと思います。フォーメーションは、下の通り(ドイツ戦参照)。

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攻撃は、4−2−3−1から3−4−2−1に変形して戦うパターンです。以下、「2013年、J1の戦術トレンドのお話 -pal-9999のサッカーレポート」の話をママ引用するような内容になります。毎回このサイトで勉強していますね(笑)。

ちなみに、なんで女子サッカーをこんなに見ているかというと、

女子サッカーって男子サッカーの流行をひとつ後ろで追っているような印象があってサッカー初心者にとっては勉強になる 、というのも理由の一つです。ちょうど男子W杯の1年後が女子W杯になるので、そのように感じるのかもしれません。

アメリカの攻撃

閑話休題。アメリカの攻撃は、下のような3−4−2−1で始まります。 2

このように変形することで、大儀見と大野のプレスを最終ライン3人で回避し、崩しにとりかかります。たとえば、一番典型的な攻めは前半13分にありましたが、

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こんな感じで、相手ディフェンスのプレスを見事に回避して決定機を作り上げました。他のパターンだと、すこし遡って前半8分ですが、

p5 p6

こうして、最終ラインから一発でモーガンに渡り、ポストプレーでロイドに繋がれたりもしています。さらに23分ですが、

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このように、ボランチの位置に降りたロイドが味方と協力しながら前にボールを運んでいくようなシーンもありました。どれも得点には結びついていませんが、非常にいい攻撃だと感じました。

モーガンのポジショニング、裏を取る動きに注意

ちょっと話が変わりますが、 アメリカの要注意人物はやはり13番のモーガンです。 ポストプレーも出来れば、裏を取る動きも出来るし、少し降りてきて良いポジショニングを取ることも出来る。FWのお手本みたいな存在だと思いました。PKのシーンはモーガンの個人技で生まれましたが、

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このように、相手ブロックの間でボールを受けたので、前を向くことができ、ドリブル突破に繋がりました。日本はモーガンに好き勝手動かせないように、適当な人がマークにつきたいです。

p11

これとかもそうですね。しかもトラップも上手なので、この後ボールを奪いにきた相手CBをかわしてシュートまで持ち込みました。凄い選手です。

そして、ここまで書いておいてアレですが、肝心の「なでしこはどう守ればいいか?」というのは、 ちょっと検討つかないです (苦笑)。今更フォーメーションを変える訳にもいかないので、とにかく2トップが走り回って少しでもアメリカの最終ラインにプレッシャーをかけるぐらいでしょうか。多少はミスもするので、上手くいけばショートカウンターもできるかもしれません。

アメリカの弱点?

一方で、アメリカの守備なんですが、正直穴があるようには見えませんでした。気持ち、19番のCBジョンストンがハイボールに弱いのかな?

という印象を持ったぐらいです。 もしチャンスがあるとすれば、 アメリカから見て左サイド(日本の右サイド) でしょうか。15番のWGラピノーは、反対側のWGヒースよりかは守備意識が低いので、ときどき戻らないことがあります(でも守備は上手そう)。

p12 別のシーンだと、こんなものもありました。ちょっと意地悪かもしれませんが・・。

p13 p14

このように、日本は右サイドを攻撃の起点にできるかもしれません。決勝でも有吉のオーバーラップによるチャンスメイクは期待できると思います。

どんだけ活躍するんだ有吉。 ## 頑張れなでしこ!

というわけで、初戦のスイス戦から熱く観戦させてもらいました。

正直、上手くポゼッションしながら綺麗に攻撃をつなげると言うよりは、お互いにボールを奪い合う、いわゆる「攻守の切り替え」とか「球際の強さ」が大事な試合になるのだとは思います。もう少しエモく言い換えれば「気持ちの強さ」や集中力がものを言う試合です。どんな結果であれ、知力・体力を尽くして戦ってくれればと思います。

ありふれた言葉ですが、 頑張れなでしこ! 液晶を通して応援します。


もう2015年も半分が過ぎてしまいました。現在は無職のため、本当に暇な時間を送っているわけですが、おかげさまでバラエティ番組はダラダラと見ることができました。

以下は、2015年前半のバラエティの簡単なまとめです。覚えている順にダラーッと、1時間ちょいで書き上げています。たくさん観てる割には、キーパンチに至ってないものがたくさんあるんですよね。後半はもう少しキレイにまとめたいな。

マイベスト

『内村さまぁ〜ず』「寺門ジモンに5人掛かりで勝利してとにかく黙らせたい男達!!」

まさか『内村さまぁ〜ず』でこんなに笑うとは思わなかったです。失礼を承知で言えば、寺門ジモンが「普通に」面白かった初めての回かもしれない。ジモンの一所懸命さが過度にスカされることなく、きちんと5人とブツかっていたのが良かったのだと思います。

一番好きなのは、後半で上島竜兵が言った「少しコイツが好きになった」。120%同じ意見です竜ちゃん!

覚えている番組

『ナカイの窓』という、中居君によるバラエティ解説番組

一時期、『アメトーーク』などでお笑い芸人の技術や陰の努力が紹介されていたことがありましたが、最近はあまり見なくなりました。ある程度視聴者が理解してしまったことと、そもそも「そんなことより笑わせてくれ」というのが同時にあるんだと思いますが、そんな2015年現在に惜しげもなくバラエティの裏側をどんどん明かしてくれるのが芸人ではなくアイドルであることには、あらためて驚きます。

とくに、「『ナカイの窓』スペシャルで知った中居正広の戦術と哲学」は凄かったですし、ゲストMCが集まる回は絶対に見たほうがいい番組になっています。中居くんの「陰の努力」に対する愛情と恥ずかしさを感れる、バラエティ好きにはたまらない番組。

『水曜日のダウンタウン』、謝罪しても謝罪感が伝わらない説

『水曜日のダウンタウン』、何が起きても笑ってしまう説」でも書きましたが、藤井健太郎のつくる番組には「悪意」がある、ということはよく語られることです。もっと分かりやすく書けば、それはいわゆる「レッテル貼り」だと思いますが、では、何故いまだにニューヨークがこの番組にハマり出していないのかは調べてほしいところ。あと、『チーム有吉』という危険すぎた番組も今年の話です。恐ろしい。

『オサレもん』の勝〜ちの〜こ〜り〜(はできなかった)

「結局、オサレ横綱とは何だったのか?」という疑問が解消されぬまま終わってしまったネタ番組。また、8.6秒バズーカを世に送った番組でもあります。ディレクターは、『レッドカーペット』と同じ薮木健太朗さん。いずれ、シソンヌ、チョコレートプラネット、アキナで何かしら番組をやったりするのだろうか。そして、一番重要なことは、この番組が松岡茉優のバラエティ能力の高さをバリバリに証明した、ということです。

『ネリさまぁ〜ず』のサトミキと愛菜

TBSから日テレに移った、さまぁ〜ずファンにとっては癒しの時間のような番組。面白いか面白くないかはあまり関係なかったのですが(さまぁ〜ずが見れれば良い)、グラビアアイドルのワンノブゼムとして出た愛菜が爆発的に面白かったおかげで名番組となった、なかなか珍しい番組でした。とはいえ、さまぁ〜ずが女子アナや女子タレントを上手く使って、彼女たちの好感度やバラエティ能力を向上させる、というのはよくあることです。愛菜の凄いのは、ほぼ最初からそれが身についていた。

一方、愛菜の裏に隠れていた純アイドルの佐藤美希=サトミキが、番組終盤から愛菜に喰らいついていったところは感動すら覚えるときがありました。私は横浜F・マリノスのファンですが、この日だけは鞠サポを辞めようと思ったぐらいにはサトミキのことを好きになっていました。

『夜の町を徘徊する』のマツコと徘徊する「私」

すっかり<テレビの人>=<有名人>になったマツコ・デラックスが、自身に対する諦めに似た感情も持ちつつ、素人と絡む番組。なので、新しいマツコを見ることができる面白さもあるのですが、この番組をコボリが好きな理由は、出てくる「素人」がすべからく「私」であること。ガラの悪そうな兄ちゃんも、カメラに映らないところから大声でマツコを呼ぶ声も、急にマツコを見つけて驚く彼/彼女も、マツコに会えたことに感動するおばちゃんも、マツコと一緒にカラオケを歌った青年も、その全てが「私」でした。

ちなみに、同番組名で検索すると「“笑う”芸人、“受け入れる”マツコ―『夜の街を徘徊する』感想と考察」が上位に来るぐらいには、まだマイナーな番組です。

『しくじり先生』が「しくじり先生」になる時は来るか?

深夜帯には、杉村太蔵が「うるせぇ」という流行語を作ったり、最終回ではオリラジ中田敦彦に全出演者、全視聴者が立ち上がり「お任せください」と叫ぶなど、確実に2015年のバラエティを牽引する番組。ゴールデンに変わってからもその姿勢は変えず、「ハッピーエンドにしないと出てくれないんだろうなあ先生方」感は若干あるものの、未だに面白いです。個人的にはバラエティ番組というより哲学番組なのだと思っています。中高生にDaiGoの講義を見せてあげたい。

人生とは『LIFE!』である

「内村光良がNHKでコント番組をやる」と知ったときの、われわれの感動は計り知れないものでした。それが今では「あ、見逃しちゃった」と言えるぐらい、日常に溶け込んだことに、あらためて感謝したいです。NHKは「受信料」なんて曖昧な言葉を使わずに、この際、「ウッチャン税」とか「NHKなんで税」とかに変えてほしい(適当)。肝心のコントは、たまに見る人でも楽しめる単発物とファン向けのシリーズ物がいいバランスでミックスされています。

何よりも凄いのは、ここでもウッチャンの「共演者を伸ばす」力が働いていることで、とくにムロツヨシと石橋杏奈はこの番組をキッカケに色んな場所に行くことができそうです。悩み相談でムロツヨシが「喉が弱いんです。どうしたらいいですかね?」とウッチャンに聞いたとき、

「辞めちゃえば!?」 と愛の言葉を投げかけられ瞬間はファンには忘れられません。あと、マモーミモーもやりました。

『さんまのお笑い向上委員会』

「いつ終わるのだろうか」と毎回感じる番組(ポジティブに)。流れ星が出ずに終わった初回は、本当に笑いました。太田光とホリケンのことが100%嫌いな人は絶対に見ないほうがいい。そして、99%嫌いな人は、一度でいいから見てほしいです。好きになる可能性、この番組ならあります。とくにホリケンについては、本当にカッコいい芸人だなと思います。それは『ネプリーグ』というファミリー向け番組を見れば分かるはず。

ちなみに、この番組自体の感想ですが、「27時間テレビの深夜帯のアレを毎週やってる」というのが答えだと思います。だからこそ面白いし、だからこそすぐお腹いっぱいになる。個人的には、2時間ドラマにしてもらって、季節ごとにやってみたらもっと笑えそう。

M-1』の復活(未確定)

なんだかんだで、2015年はこの話に持っていかれるのでしょうか。最大のスカシになる可能性もありますが、全ては準決勝あたりで分かることでしょう。「優しさは失敗のもと―2015年のM-1は成功するか?」で書きましたが、出場資格がコンビ結成15年以内というのはやはりマズいと思います。もう間に合わないのかな。

ちなみに、当ブログ一番の人気記事に「THE MANZAIはM-1を殺した―中川家から博多華丸・大吉まで」があります。長文注意。


女子W杯決勝トーナメント、日本はオランダに2−1で勝ちました。攻め込まれるシーンも、GK海堀のミスもありましたが、宮間が「オランダが日本の良さを消してくるサッカーじゃなく、オランダらしいサッカーをしてきたことで、戦い方としては分かりやすかった」と発言しているように、総じて安心して見られる試合でした。

オランダ戦のレビュー

基本的には、プレビュー記事で書いたことと同様です。ただ、オランダが意外に守備していたことと、とくに大野がFWとして良い働きをしていた(DFラインと中盤の間でボールを受けるプレーが良かった)ことは想定外でした。

また、2点目のゴールの起点になった、チーム全体のプレスと阪口の勇気あるプレスからのシュートは鳥肌モノでした。このW杯を通して、一番綺麗なゴールになるかもしれません。

1 2

前半はオランダのアンカーの位置にいた選手(最終ラインのフォローに入った選手)がフリーになることが多かったのですが、後半では阪口がこれをマークするようになりました。2点目はそのおかげです。ちなみに、もしこのプレスを回避されると、

3 4 こんな感じで前線に送られることもありました。あとは、GKを経由して回避されたりもしていました。

5 6 7 ちょっと試合のレビューから外れてしまっているんですが、このあたりの駆け引きが面白かったです。

オーストラリアの攻撃について

次戦はオーストラリアとやることになります。去年の女子アジアカップで決勝を戦った相手なので、互いに互いを知り尽くしている中での試合になりそうです。これまでのハイライト動画を載せておきます。

アメリカ戦

ナイジェリア戦

スウェーデン戦

ブラジル戦

ブラジル戦はフルで見たのですが、正直に言って、オーストラリアは相当いいチームだと思います。組織的な動きができますし、SBのオーバーラップも積極的ですし、ショートカウンターもポゼッションサッカーもできる。しかも運動量も多い。言うなれば、

なでしこと似ています。 攻撃時には、両SBが1列上がり、ボランチ1人とトップ下がそれぞれ1列下がった3−4−3または3−4−2−1のようになるように、流行をしっかり追ったサッカーをやってきます。

テレビでも「要注意人物」として挙げられている11番のデバンナですが、スピードも決定力もありますが、中に入ってサイドにパスを出すようなポストプレーもできます。鮫島様はまた大変な人とマッチアップすることになりました。

そして、オランダと違って脅威なのが、最終ラインからのフィードです。スウェーデン戦の得点は、右CBからデバンナに直接通って決まりました。ブラジル戦では、左CBも良いパスを前線に出していましたし、左SBも組み立てができるような印象を受けました。右SBはクロスの精度が良いように見えましたし、どこからでもクリティカルなパスが放り込まれてきそうな感じでした。

試合の見所は「スタミナ勝負」と「GK」か

というわけで、これまでの試合の中では最も厳しい相手です。「なかなか手強いな」というような印象ではなく、こちらがチャレンジャーとして勝負したほうがいいです。

また、日本にとってネガティブな要素として、次の試合まで中3日の日本に対してオーストラリアは中5日と、試合日程でも分の悪い状況があります。

というのは、なでしこジャパンもオーストラリアも、きわめて運動量の多いサッカーをやっています。たとえば、今回のオランダ戦。攻撃のチャンスを作れたのは、SBがオーバーラップを仕掛けたからです。反対にオランダの攻撃を防げたのはSHがプレスバックしてSBと一緒にオランダのWGを捕まえたからです。そして、こういう戦術を実行するには、当然ながら長い距離をスプリントすることが必要になります。

オランダ戦は1週間ほど空けて試合に臨めたので、良いコンディションで90分間を戦うことができましたが、オーストラリア戦では後半で足が止まるようなことも予想されます。「勝ちたいという気持ち」だけではフルに走りきることはできません。

なので、佐々木監督の交代策はこの試合のポイントの一つになるでしょう。たとえば、川澄または大野あたりは交代を前提としたうえで60分間ほど全力で走り続けてもらうなど、「スタミナ切れ」で負けないように工夫をする必要があると思います。そうでないと、いつかサイドで負け始めるはずです。

それと、どんな試合でも言えますが、オーストラリア戦以降はGKの働きの重要性がより大きくなります。これは最近自分の中で流行っているだけなんですが、結局のところサッカーはゴールさえ割らなければ負けないスポーツです。となると、GKって想像以上に重要なポジションです。「続、サッカーにおけるGKの話-pal-9999のサッカーレポート」みたいな話もありますし。

実際、ブラジル戦でオーストラリアがゴールできたのは、ブラジルのGKがミスをしたからです。キャッチするなら絶対にキャッチしないといけないが、できずにこぼしてしまったのがゴールに直結しました。今回の活躍を見るかぎり、おそらくオーストラリア戦のGKも海堀になると思いますが、「頼む!」って感じでしょうか。

予想スタメンを考える

ついでですから、GKだけじゃなくて、オーストラリア戦の予想スタメンも考えてみます。悩みどころは「サイドの配置」です。

オーストラリア戦ではお互いに守備をよくするので、たとえば日本のSBがオーバーラップすればマッチアップするオーストラリアのSHはそれに合わせて自陣まで引き返すはずです(オランダ戦はそれが無いから、サイドのスペースを有効に使えた)。自陣まで引き返してくれれば、カウンターを仕掛けようにもスピーディーにはできません。つまり、SBの攻撃参加というのは守備的なメリットも生み出してくれます。

これはお互いに仕掛けてくるはずです。となると、サイドには運動量の多い選手が欲しくなり、左SHには鮫島様を入れるべきかなという判断になりました。なので、自然と宮間がボランチの位置につきます。

残りは全部いつも通りです。というわけで、下のようになります(オーストラリアはブラジル戦のものをママ採用)。もしかしたら、阪口に変わって澤が先発するかもしれません。この日のために澤を温存していたとしたら、佐々木監督は策士です。

myboard

繰り返しになりますが、3つの交代枠が重要です。岩渕は守備もこなせていたし、必ず出番はあると思います。キープ力のある澤が出場していれば、川村も守備固めとして活躍してくれると思っています。

今回の2つのゴールを見る限り、だんだんと調子の上がっているなでしこジャパン。試合を見るたびに色々と勉強できますし、オーストラリア戦も勝って、ひとつでも多く試合を見れることを願います。