koboriakira.com

10代の中には知らない人も当然いるでしょうが、 中島美嘉 という女性シンガーがいます。

わたしの世代(1989年生まれ)にとっては、デビュー時から見ている歌手です。冬のバラードと言えば「冬の華」ですし、高校時代(かな?)にカラオケに行けば、女子はこぞって「GRAMOUROUS SKY」(映画『NANA』の主題歌)を歌っているなど、まあ牧歌的な時代でした。

かくいう私も、デビュー作から3枚目ぐらいまでは熱心に聴いていて(※1)、結構好きな歌手です。


で、今日は彼女が出した楽曲の中で、とても不思議だった曲について、雑筆しようと思います。 曲名は 「Love Addict」

(2ndアルバム『LOVE』に収録)。

これ、初めて聴いたのはまだ中学生だった頃、やっと自慰行為を覚えたぐらいの頃です。楽曲のオトナな雰囲気もあいまってか、聴いたあとはしばらくボーッとしてしまって、それからは何十回もコスるほど聴いてました。

もし未聴でしたら,とりあえず一度聴いてみてください。 「なんだ。全然単純じゃん」

と思うかもしれませんが、できれば中学生ぐらいの頭で聴いていただければ(笑)。

クロスリズムのポップスとして再評価する

一聴してみて、いかがでしょうか。オシャレでジャジーがゆえに、演奏の難しそうな楽曲に聴こえるでしょうか。。

実際、中島美嘉自身もこの楽曲に対しては、難しく感じていることをインタビューで告白しています。

--そういったスタイルだからこそ歌うことが出来た曲ってたくさんあると思うんですけど、例えば『Love
Addict』。かなりジャズの要素が濃いナンバーですけど、あれを吸収するのってかなり難易度が高いというか。
中島美嘉:大変でした(笑)。いまだにうまくは歌えませんね。 すんなり歌えることはあんまりない。
なので、今も吸収中だったりするんですけど。ただライブで歌うときはそういうことは気にしないですね、上手い下手なんてどうでもいい、楽しければいい、みたいな(笑)。自分で後から聴いて「ひっどいな」って思うんですけど、「まぁいいか、楽しそうだし」って思うことにしてるんです(笑)。
([中島美嘉 『BEST』インタビュー | Special | Billboard JAPAN](http://www.billboard-
japan.com/special/detail/210))

また、一般の方がカバーしている動画も見てみましょうか。たしかに難しそうですね(ボーカルに耳をとられると思いますが、この記事を読み終えたら次はピアノに注目してみてください。かなり簡素化されてます)。

しかし、このエントリでは、楽曲の演奏の難しさにはまったく触れません。 では、どこを扱うか。それは「Love Addict」のリズムについてです。

結論から言うと、「ジャジーでオシャレ」というイメージを剥ぎ取ると、「Love Addict」はJ-POPとしては相当難しい、というか相当「大衆的でない」 ことにチャレンジしています。それは、 <クロスリズム> の利用です。

クロスリズムを使ったJ-POPは、2015年現在でも珍しいです。「Love Addict」は現在でも咀嚼しきれていない楽曲であると私は思っていますが、その理由はこれです。(※2)

以降、ドラムを付け足して解説します。ここから面白くなるから(27人に1人ぐらいは)、まだページを閉じないでくれー!(笑)

どの「リズム感」でこの曲を掴むか?

おそらくこう聴こえてる(踊る)はず

まず、「 たぶん、こう聴いて、踊るんじゃないかなー 」というパターンを出します。 [audio mp3=”http://koboriakira.com/wp-content/uploads/2015/10/love1.mp3”][/audio]はじめて聴いた場合、ほとんど方は、上のハイハットと同じリズムで聴くでしょう。 図にするとこんな感じです。

love1-1

キックは1小節ごと、ハイハットは1拍ごとを表しています(面倒なら覚えないでも大丈夫です)。

図を見ると、1小節(キックからキック)の間に拍(ハイハット)が3つあります。この状態、一般的には4分の3拍子(or8分の6拍子)なんて呼ばれたりします。

もしこう聴こえていたなら、それはベースに先導されているはずです。ベースとハイハットの鳴るタイミングが一緒ですよね。

シャッフルを感じる

もう少し聴いてみましょう。同じくイントロ。今度はドラムが入ってくるところからです。 [audio mp3=”http://koboriakira.com/wp-content/uploads/2015/10/love2.mp3”][/audio]2-1

こうなると、拍の取り方に少し変化(追加?)がでます。図のような シャッフル として聴こえてくるはずです。

「シャッフル(ビート)」というのは、3連符を使ったハネのあるリズムのことです(用語ばかりで面倒臭いですが、重要なところです)。1拍を3等分に割って、その3つの真ん中の音を抜かし、リズムをとります。

ピアノがつくり出すリズムの混沌

さて。上のようなリズムの取り方をしたとき、違和感を感じる楽器があります。それは、ピアノです。

ミックスによる気持ちよさもあって、ちょっと聴いただと違和感も無くスーッと入るかもしれません。

違和感を強調するために、スネアをピアノのタイミングで打ってみることにします。 [audio mp3=”http://koboriakira.com/wp-content/uploads/2015/10/love3.mp3”][/audio]こうすると、最初はちいさな違和感だったのが、ちょっとずつ増幅されてきませんか。

その違和感の原因は、ハイハットを除いてスネアだけで聴いてみると、よくわかるかもしれません。 [audio mp3=”http://koboriakira.com/wp-content/uploads/2015/10/love4.mp3”][/audio]3

図で表すとより分かりやすいのですが、ハイハット(ベース)が3つ鳴っていたのに対して、スネア(ピアノ)は2つしか鳴っていません。

このスネアに引っ張られながら聴くと、さっきと違うリズムで「Love Addict」が耳に入ってはこないでしょうか。

あるいは、このスネア入りの音を聴きながら、最初感じたリズムをとることはできますか(もし出来て、なおかつ「気持ちいい」と感じたら、それは新しい世界の第一歩かもしれません)。

この話、長引きそう⋯⋯

随分長々と話しましたが、このエントリで伝えたいことは、次のとおりです。

1つの楽曲の中で、1小節(キックとキックの間)を3つに割るリズムと、2つに割るリズムがある。

これ、文章で読むとそれほど「ガーンッ!」って感じじゃないんですが(笑)、2種類のリズムを交互に変えながら聴くと、その違いに驚かれるはずです。

実際、私はめちゃくちゃ驚き、そして今ではこの曲の解説を書こうとしているぐらいです(笑)。

---すこし疲れたので、続きはまた次に。まだクロスリズムの単語すら出てきませんでしたね(笑)。 久しぶりに長い記事になると思いますが、ゆっくりお付き合いいたければ幸いです。たまにブログをチェックして、「ああまだ更新されてないかー」とかやるのも楽しいと思いますので。

(※1)バラードのイメージがある彼女ですが、本質はダンスミュージックにこそあると思います。ただ、全て売れなかったんですよね(笑)。「Helpless Rain」は、2000年代のR&B;の筆頭として挙げても違和感の無い名作です。

(※2)いつか後述されることになりますが、実際にクロスリズムを利用したパートというのは僅かです。しかし、それでもなお、この楽曲のリズムは通常のJ-POPとはまったく異なります。 12年ぶりに、中島美嘉「Love Addict」をポリリズムの観点から再評価する(2)


はい、「Love Addict」をこねくり回しながら聴くシリーズ、第2回ですー。

前回はこちらから。この連載は、多分途中から見てもつまらないです。少なくとも140字でまとめられないタイプのヤツです。

まずは音源の再確認から。PV見ると、この頃の中島美嘉ヤバいですね。いまは橋本環奈さんや渡辺美優紀さんがメジャーなのでしょうか(先週までAKBの「みるきー」こと渡辺美優紀さんについて、本名が「渡辺みるき」なんだと勘違いしてました。コボリはモー娘。の飯窪さんとJuice=Juiceのさるきちゃん推し。どうでもいいですね)。

前回のおさらいと、「Love Addict」の聴きどころ

繰り返しになりますが、前回の話をもう一度。

ベース(ハイハット)が刻んでいる「4分の3拍子」に対して、ピアノ(スネア)の打点が少しおかしな位置にあるんじゃないか。 というのが前回のまとめです。

前回はイントロを使って話を進めましたが、サビも同様です。最後の「愛に狂う女は美しい」の部分は、スネア的なリズムの取り方ができます。 それで、「Love Addict」のカッコ良さのひとつに、このような パート内(サビ全体、Bメロ全体とか)でのリズムの切り替え があります。

この技法をもっとも気持ちよく使っているのは、サビ前でしょう。 上の音源に戻って、 「一瞬の儚いものに指令は下された」 の箇所を聴いてみてください。

(2:06あたりから)

それぞれのリズムに揃える

ここまで書いた時点で、すでに「 もしかすると前回のおさらいだけで終わるのでは⋯⋯」という予感が脳内に突き刺さっておりますが、あー、多分おさらいのみで第2回はクランクアップします(笑)。

とはいえ、単に冗長化を狙っている訳ではなりません。このあたりの話がめちゃくちゃ面白く、まだ一般化していないと思うので、なるべく丁寧にやりたいんですよね。

閑話休題。 さきほど挙げた「一瞬の儚いものに指令は下され」を、2種類のリズムごとに聴いてみます。(※1)

まずは4分の3拍子。ハイハットのみで合わせてみます。 [audio mp3=”http://koboriakira.com/wp-content/uploads/2015/10/1.mp3”][/audio]「一瞬の儚いものに」の箇所は、リズムがバシッと一致します。しかし、「指令は下され」のところでコケそうになりませんか。

では、逆に「指令は下され」のリズムに合わせて聴いてみましょう。スネアのリズムですね。3つのハイハットが詰まっていたところを、2個のスネアに変更しました。

[audio mp3=”http://koboriakira.com/wp-content/uploads/2015/10/2.mp3”][/audio]こちらは、「一瞬の儚いものに」がメチャクチャに感じる反面、「指令は下され」でビシッと揃います。伏線が回収されたような気持ちよさ(笑)。

2種類のリズムを切り替えてみる

現時点では難しいと思いますが(※2)、ここで2種類のリズムを切り替えることにチャレンジしてみましょう。

「一瞬の儚いものに」はハイハットで、「指令は下され」はスネアで、それぞれ刻むようにしてみますね。 [audio mp3=”http://koboriakira.com/wp-content/uploads/2015/10/3.mp3”][/audio]ガイドがあるので、なんとなく掴めると思います。切り替わる瞬間にガクッとなるかもしれませんが、いまは根性で乗り切ってみてください(笑)。

もしこの切り替えによって「楽曲の気持ちよさが格段に上がった!」とか「この音源を聴きながら机を叩いてるだけで30分経った!」なんて方がいらっしゃれば、最高です。

クロスリズムの導入と次回予告

この「難しさ」や「気持ちよさ」について、次回ではいよいよ <クロスリズム> を取り上げて説明してみたいと思います。

なるべく早く次回も書き上げますが(※3)、お待ちいただく時間ももったいないでしょうから、使用する音源だけ載せておきますね。

ガイドとして載せていたハイハットとスネアだけを取り出して、簡単なクロスリズムを組んでみました。 [audio mp3=”http://koboriakira.com/wp-content/uploads/2015/10/4.mp3”][/audio]次回はこの仕組みを書きます。 (※1)「下された」の「た」があまり発音されていないので、「た」を取って解説しています。

(※2)これは、「読者の方のリズム感が悪いから難しい」という意味ではありません。リズムを上手くとる方法をまだ書いてないだけです。 (※3)「早く知りたい!

もっと深く知りたい!」って場合は、菊地成孔がニコニコ動画でやっている「モダンポリリズム講義」を視聴するのがベストです。私のこの記事は、講義内容を身体化させるためのプラクティスのようなものですから。

12年ぶりに、中島美嘉「Love Addict」をポリリズムの観点から再評価する(3)


熱意はよく伝わるんだけど、自分の心に響きはしなかったなー。 という、まさしく「若者」のコメント。 [amazonjs asin=“4584124892”locale=“JP” title=“若者が社会を動かすために (ベスト新書)”] 本書は、 税所篤快さんによる最新作で、著者自身の経験と8人のインタビュー(と田村淳のとの対談)から、若者が社会を動かすために必要な要素を考える内容になっている。

『ゆとり世代の愛国心』を含めて、私が著者の書籍を読むのは2冊目(『ゆとり〜』は本人のFB告知が目に入り、応援の意味も含めて購入した)。今回は、親友が構成を担当していたこともあり、発売後にすぐ購入して読破した。

信頼できる人が構成をやっているので、読みやすさはあらかじめ保証しよう。 しかし、内容は賞賛と違和感の詰め合わせ、というところ。

感想

賞賛したあとに批判してしまうと批判しか残らないので、まず先に違和感のほうから。

「独り語り」に共感はできなかった

この本を最後まで読んで解決しなかった問題がある。それは、 「この本を誰に届けたいのか?」

ということだ。この疑問は、「はじめに」を読んだときから発生していた。 「おそらくこういう人に向けてるんだろうなあ」と感じた箇所があるのだが、

「なんでそんな無謀な挑戦を続けられるんですか?」僕にそう聞いてくる若者は少なくない。きっと彼らは「自分たちに社会を動かすことなんてできない」と思っている。
[⋯] 社会を大きく動かすために必要なことは何なのか。 月並みかもしれないが、僕は“人のつながり”だと思っている。
(税所篤敬『若者が社会を動かすために』、ベスト新書、2015年、5−6ページ。)

ここから、読者層は社会を動かすことを諦めている若者、あるいは、社会を動かしたいけれど行動に起こせない若者なのだろう、と推測した。

しかし、この推測を頭に入れて本書を読んでも、著者のメッセージをストレートに飲み込むことはできず、恥ずかしながら 「俺はこんなことを成し遂げたんだ!

今も最前線で俺は走っている!」 程度の読解に終わってしまった。

なぜ社会を変えなければいけないのか?

で、読み進めるうちに、ひとつの疑問が出てきた。 それは 「なぜ社会を変えなければいけないのか?」 という疑問だ。

僕も最初は足立区の教育を変えたくて、動き出した。生まれた場所を少しでもよくしたい、という思いが僕の活動の原点だったのだ。 (同、110ページ。)

上の熱意には理解ができる。でも、それ以上に「こっちが本音かな?」と思ったのは、下の箇所だった。

「夢中になれる何かをしたい」そんな僕を社会起業へと向かわせた原点には、二冊の本がある。 (同、19ページ。)
「一人前の男になってやる。世界に出て、修行をする」 僕は大学に入って最初に付き合っていた彼女に、突然別れを告げられた。本当に、突然のことだった。
男として、僕に何が足りなかったんだろう。もう二度とこんな思いはしたくない。さまざまな思いが去来する中で、一人前の男になるべく世界に出ることを決めた。
(同、24ページ。)

ここだけを引用するのは、なるほど卑怯かもしれない。しかし一方で、この箇所以上に、著者の熱意が伝わるものを私は見つけられなかった。

この疑問には、著者も(現時点で)明確な回答を持ちあわせていないのだと思う。もちろん、私もだ。

すべての人間は輝くべきなのか?

なぜこんなところに引っ掛かるかというと、著者が「世界を変える」ことに必要以上の正しさを置いていたり、「日本は〜、でも世界は〜」とよく耳にする論調に絡み取られているように感じたからだ。

根本的な批判をすれば、 著者の人間観は「世界を変える元気のある人/無理だと思っている疲れきった人」という二項対立に支えられている。

少なくとも、この本ではそのように読めてしまった。

いまの日本では、閉塞感を感じている若者、世界なんて変えられないと思っている若者は多いと思います。淳さんは、どうやったら世の中を変えられると考えていますか?
(同、250ページ。)

著者からすれば、私は「世界なんて変えられないと思っている若者」だ。そして、この分断はある種の怖さもある。

しかし、現代に生きる大人たちを見渡すと、“やりたいことをやって輝いている人”は悲しいほどに少ない。一度きりの人生なのに、どうして多くの人たちはやりたいことから離れていってしまうのだろうか。
(同、184ページ。)

上記の意見には、なるほど共感できる。 しかし、よくよく考えると、 「やりたいことをやって輝いている人」が少ないことは本当に悲しいことなのかな、とも思ってしまう(あまのじゃくの面倒臭さよ)。 このことを考えたとき、大学時代に受けた労働に関する授業で、教授のある印象的な台詞を思い出した。 曰く、

「ある決まった時間にこの教室の電灯を消す仕事があったとして、この仕事に従事する者を悪く言う権利は誰にも無い」

やりたいことをやって輝くのは勝手だ。輝くためにやりたいことを探すのも勝手だ。でも、やりたくないことをやって輝いていない人も必ず存在するし、その生き方が決して悲しいとは誰にも断言できない。

結局のところ、このあたりの価値観が自分にとっては大きな違和感を生み、今でも上手く消化できないポイントであった。

「発言集」としては名著

少々長くなってしまった。 批判だけで終わらすにはもったいない書籍なので(上の批判は、いわゆる穿った見方だ)、きちんと面白かったところも残しておきたい。

それは、著者が自身の体験(まさしく「つながり」)の中で得た、 先輩や友人の言葉 だ。拾い読みではアツさは伝わらないと思うが、いくつか拾ってみよう。

破壊的なことを外でやればやるほど日本に創造的な影響を与えられる。時代はあなたが体現したエネルギーを失っているんだよ。[⋯]君は日本人のレベルを超えた挑戦ができるステージにいるんだ。20年挑戦し続けられたら、あなたの勝ちだ。
(同、55ページ。)
はじめに描いたビジネスモデルがうまくいく例なんてほとんどない。みんなやりながら変えていきながら、生き残っていくんだ。みんなアイデアだけの空中戦になってはいけない。一番大事なのは小さくはじめること。小さくていいから成功モデルをつくることだ。
(同、92ページ。)
僕は、彼らが不利益を被っていることに憤りを覚えました。その憤りは社会に向けたものであり、いままで気づけなかった自分に向けたものでもあります。
(同、192ページ。)

他にも、著者が関わる先輩や友人の言葉から、その生き方や考え方を伺うことができた。

著者批判にならないと思うので書くが(これも狙いの一つだと思うから)、著者以上に強い関心を持った人物もたくさんいる。 とくに、インタビュー集の中でも大木洵人 氏との対談は、この本のハイライトだ(3つめの引用はそれから)。

もし立ち読みをするなら、ここを読んでみてほしい。本書の魅力は、このあたりに詰まっていると感じた。


いろいろと書いたが、裏を返せば、それぐらい私たちにとっては他人事のようで実は自分事の話なのだ。

同年代なら、共感や啓発、批判や嫌悪、すべてを含めて、この本を出発点に自身について様々に考えることができると思う。

目次

  1. つながりが社会を動かす1. ゼロからプロジェクトを立ち上げるために2. ビジネスモデルを生み出すために3. 世界にプロジェクトを広げるために4. タフな環境で闘うために5. 変革を起こすために2. 社会を動かす若者たち

ネットライターの皆様におかれましは、「ああ、なぜロッチが優勝しなかったんだろう」と、お気持ち察します(その理由は単純で、「キーパンチが簡単だから」ですが)。

そんなわけで、一番キーパンチの面倒なコロコロチキチキペッパーズが、2015年のキングオブコントの優勝を勝ち取りました。

ネタが2本とも面白かった唯一のコンビで、彼らの優勝に文句はありません。

で、そういった個々のネタの感想はtwitterに譲るとしまして(後述)、ザックリと全体の感想と批評を載せておきます。

本当はじっくり書きたいんですけど、ネットの消費スピードに合わせるようにするなら、このタイミングでの投稿がギリギリなんですよね(笑)。アクセス数に俺は魂を売るぞ(20ビューぐらいのために)。

審査システムの変更による、キングオブコントの変更

昨日、「コント」が「キング」になるかもしれない日〜『キングオブコント2015』前夜という記事を書きました。

上の記事の主張は、松本人志が審査員席に座ることで、この大会の権威性が高くなり、ひいては「コント」が「漫才」より高い位置に来るのではないか。そういう革命が起きるかもしれない、というものでした。

で、結果ですが⋯⋯ まったくの勘違いでした (爆死・久々に思い出して使ってみた)。 むしろ逆に、

「松本人志ですら、番組の構造には逆らえないのだ」 という深いテーゼが自身の肝臓あたりに染み渡りました。

M-1とKOCの比較

時間の影響で詳しく説明できず恐縮ですが、『M-1』と今年の『キングオブコント2015』(以下KOC)を比較すると、たとえば以下のようなことがあります。

  1. M-1は、どれだけバラエティに寄っていても根底に 「真剣勝負」感 が強くあった。KOCは、松本人志が審査こそしたが、いまだに バラエティ番組 の匂いが強かった。
  2. 司会は、M-1が今田耕司、KOCが浜田雅功。彼らの違いは、キャリアを原因とする 審査員との距離感 。つまり、M-1は審査員(島田紳助)が番組を引っ張っていくのだが(今田はフォロー役)、KOCは司会が番組を引っ張っていく(つまり普通の番組、である)。
  3. KOCの観覧が、『アメトーーク!』にいそうな娘ばかりだった。 M-1の観覧は、お笑いに対して一家言持っていそうだった(顔が映ってないからそうイメージさせられる)。

これらから推察するに、 キングオブコント』は決して『M-1』を吸収合併しようとした訳ではない 、ということです。

むしろ、松本人志が審査したのにも関わらず/審査したからこそ、番組がよりポップさを帯びていました。

私が考えているより『キングオブコント』はもっとピュアで、天然で、正直なところ、 **「ゴメン。でもなんで ⋯⋯今になって審査システム変えたの?」**と、その理由が最後まで掴めませんでした。 「あれ? もしかして⋯⋯、前のシステムのほうがマシ?」みたいな(笑)。

視聴者側のシステムの変更

もうひとつ、上のこととも絡みますが、まずは独立して書いておきたいことがあります。それは、ほかならぬ私たちの視聴態度です。

これ、恥も外聞も無く書いてしまいますが、 今回ほど自分の感覚と審査員の感覚と一般の感覚が一致したことはありません。 (※1)

これが「素人(と私)の視聴レベルが芸人並みになってきたんだ」っていう牧歌的な認識で終わればいいんですけど、あまりそうとも思えませんでした(笑)。

むしろ、コロチキのネタを見て笑ってるとき、「ああ、これぐらいのネタで爆笑するのが今っぽいよね」という、ある種の悲観を伴った笑いが自分にはありました。

ちゃんと言えば、それは 「ストーリー性の無さ」と私たちの相性がどんどん良くなっている、「ひねくり回したネタは見たくない!」というか、もっと極端に「ストーリーなんて要らない! だって面倒だもん!」というような空気です。

で、この空気に「そうだよ! その通り!」って人と、「まあ⋯⋯、時代⋯⋯、じゃないですか(笑)」って人と、番組内の空気を感じ取った審査員が合わさった結果、今回の優勝者が決まった。

コロコロチキチキペッパーズが面白いのは間違いないのですが、今回の『キングオブコント』は正直なところ、コロコロチキチキペッパーズ的なものに凌辱されたような(言い方キツいですかね?

雰囲気を察していただけると⋯⋯)大会だ。というのが全体の感想です (※1)藤崎マーケットだけは別。1本目のネタで480点ぐらい貰ってもよかったでしょ!

ドラマとコントのマリアージュは可能か?

最後に、今回のKOCで気になったのが、各コンビの紹介Vの「うるささ」でした。

コントは漫才と違って、芸人が本来持つキャラクタと関係ないことを演じたりすることが可能です。だからこそ、コントには無限の可能性があります。

なんですが、そういったコントの前に芸人のドラマをバリバリに見せられると、ちょっとした違和感が残ることもありました(今年に限ったことではないですが、なんか今年は特に感じた)。

たとえばザ・ギースは「念願の再チャレンジ!」みたいな感じでしたが、そこであのネタをやられると、ほんの僅かですが咬み合わないところが出てきていたように思います。

逆に、これを上手く使っているなと毎回思うのが巨匠です。コントで演じるキャラクタと実際のフリートークのキャラクタがほぼ一致している、というコスパの高い(笑)コンビです。

これについては、昨年のV振りがどれくらいの時間だったかなども計測して、詳しく見てみましょうか。

twitterの雑な感想群

こんな感じです。今回は巷で大流行のSEO対策、ってことでバーッと書いてしまいましたが、一つお願いいたします(笑)。もう少し考えが固まったら、また書きます。

最後に、twitterに書いた番組のリアルタイム視聴の感想の抜粋です(録画なのでCMは飛ばしました)。 なんだか2008年ぐらいの感じがして平和ですねー。 まだ戦争を遠くに感じていた、あの頃です。では。


藤崎マーケット。 一発屋のドラマ。俺は本当に彼らが好きだ! R-1のときも思ったけれど、すこし悲しさがあるのが心を掴まれる。

— コボリアキラ (@kobori_akira) 2015, 10月
11

審査員がとにかく優しい。賞レースとバラエティ番組の間を狙いながら、松本人志に頼りながら、なんとか続けようとしてる。松ちゃんに対するハマちゃん(KOC)と今田耕司(M-1)との違いが浮き彫りになる。

— コボリアキラ (@kobori_akira) 2015, 10月
11

三村さんと同じ感想しか思いつかないのか?

— コボリアキラ (@kobori_akira) 2015, 10月
11

コロコロチキチキペッパーズ。
「声」推しなんだー。でも、この時間でなら丁度いいかも。インパクトで笑いをとってる間に導入を済まして、残りの時間で本ネタをバンバン撃つ。「新しい」と言えば新しい。

— コボリアキラ (@kobori_akira) 2015, 10月
11

ちょっとドラマ部分が長いように感じる。というか、芸人のドラマがコントには直結しないんでしょうね。

— コボリアキラ (@kobori_akira) 2015, 10月
11

ザ・ギース アルコ&ピースみたいなことすんな!!!(笑)。頭がおかしくなったさかなクン、もっと見てみたくて減点したい気分。

— コボリアキラ (@kobori_akira) 2015, 10月
11

ロッチ。 美味しい食材は、シンプルな調理法が一番。

— コボリアキラ (@kobori_akira) 2015, 10月
11

ドラマが付属してアガるのは格闘技だけで、「K-1」をインスパイアしたM-1は盛り上がるけれども、キングオブコントは違うんだ。そういうところから考えていこう。

— コボリアキラ (@kobori_akira) 2015, 10月
11

アキナ。
コントを見る自分たち(視聴者)の変化に気づく。ポップに言えば、140字に収まりきらないネタは笑う前にクエスチョンが出ちゃうんだろうなあ。審査員がどう評価するかはわからないけれど。

— コボリアキラ (@kobori_akira) 2015, 10月
11

大竹さん、何も言わないようでいて実は結構ビシッと言ってる。

— コボリアキラ (@kobori_akira) 2015, 10月
11

巨匠。
回転寿司ネタ。「うちのチェーン店は」ってつけてるけど、かなりギリギリだ(笑)。設楽的に言えば、コントで一度売れればOKなネタをやる新しいコント職人だ、というのが自分がいつも思う感想。

— コボリアキラ (@kobori_akira) 2015, 10月
11

「面白い…ハズなのにね」という松ちゃんのコメント、実はものすごい時代の空気を掴んでいると思う。

— コボリアキラ (@kobori_akira) 2015, 10月
11

松本人志の変化が著しいけれど、この5年間における自身の変化なのか、漫才とコントの違いなのか。

— コボリアキラ (@kobori_akira) 2015, 10月
11

コロチキの優勝は、こうやって見ると妥当でした。番組全体(というか審査員)を見る年になっちゃったので、ネタに対する感想があまり出ないんですけど、やはり身体性とキャラの時代なんだろうなー、という感じ。いわゆる「コント」じゃ、そうウケない時代です。代わりに『LIFE!』にまかせてくれ!

— コボリアキラ (@kobori_akira) 2015, 10月
11

今回のKOC、本当に難しいところで。番組の変化と、わたしたちの変化(が終わりつつあること)と、ネタの変化と…。ウッチャンが存在しないことも重要なんだけど、それはイッテQのせいだと知った。

— コボリアキラ (@kobori_akira) 2015, 10月
11

藤崎マーケットの1本目がアニソンだったこと。単純に面白そうなものを選んだだけだけれども、こういう無意識の選択が実はすごい重要な意味を持っている、というのが自分の直感です。笑いとはほとんど関係ないのですが…。

— コボリアキラ (@kobori_akira) 2015, 10月
11


「ジャングルポケットがKOC決勝!?

どれだけ良いネタ作ったんだろうか!」と驚きつつもボーッとしていたら、「あっ⋯⋯」という間にKOC前日でした(池波正太郎的な「あっ」の使い方)。

「前回の視聴率が低かったから、今回は知名度の高い芸人を選んだんだろう?」という声もありますが、そんなことはどうでもよく、藤崎マーケットが決勝に出れたことの俺はアツくなったというか、まあ本気で応援します(笑・昨年のR-1の彼らがすごい印象的だったんですよね)。


しかし、今回はそんなこともブッ飛ぶくらいのニュースがありました。 それは、 審査員の一新 です。まだ知らない人は、まずは下のニュースを。

『キングオブコント』“大改革”審査員に松本人志、バナナマン、さまぁ~ず ネタ順も決定 | ORICON STYLE

それで、決勝の始まる前に、この審査員の交代がどれだけ大きなことか書いておきたいと思いました。 微妙に長いので結論を先に載せると、

「漫才」と「コント」の力関係について大きな影響を与えるんじゃ? という話です。

王冠を、漫才からコントへ

まず、今回の審査員の話をする前に、あらためて『M-1』のことを考えておく必要があります。

松本人志という権威について

拙記事で恐縮ですが、「THE MANZAIはM-1を殺した―中川家から博多華丸・大吉まで」を引用させてください。これからの話は、これを前提としています。

結論からいうと、M-1は「権威」と「批評性」を打ち出しながら、同時に「物語=歴史」を積み重ねることで、モンスター級のポップさと裏読みの可能性を持った番組として、2000年代のお笑い界に君臨しました。
M-1の「権威」というのは、賞金と審査員のことです。1000万という破格の金額が一夜にして入ってくる。さらに、それらを審査する人間の中に、「松本人志」という日本のお笑いのカリスマがいる。

松本人志は、1989年生まれである26歳(私です)にとっても、1979年生まれである36歳も、1999年生まれである16歳にとっても、「日本のお笑いのトップ」だというイメージが強くあります(2009年生まれの6歳は違うかもしれません)。

松本人志が笑うものは、自分も笑わなければならない。松本人志が認めた芸人は、自分も(センスがあるならば)認めているはずだ。このような思考は、それなりに一般的なものでしょう。

なので、どのような賞レースでも、そこに松本人志がいるといないではその権威に大きな違いが生まれます。 チャンピオンにつく「箔」がまったく異なるのです。

それは『THE MANZAI』のことを考えれば納得できるかもしれません。 パンクブーブー、ハマカーン、ウーマンラッシュアワー、博多華丸・大吉。『THE MANZAI』に優勝したことがキッカケで大きな人気(と権威)を得たコンビは、私の感覚ではいません。

それぐらい、「松本人志が審査員にいる」ということは、重要なことなのです。

5年の歳月を経て、権威は移動した

2010年に『M-1』が終わり、権威は5年の間、宙に浮いていました(この5年間で、『M-1』は『THE MANZAI』に殺されてしまったのだ、というのがさっきの記事です。後述しますが)。

そして2015年、松本人志が『キングオブコント』の審査員席に腰を下ろすことになりました。

大袈裟に聞こえるかもしれませんが、このことは、『M-1』にあった笑いの権威が『キングオブコント』に移動することを表している、と考えています。

ザックリと言えば、 お笑いの王冠を「漫才」から「コント」へと移そうとするチャレンジが始まりました。

欲望される「コントの復権」

なぜ2015年にこんな事が起こったのか? もう少し経たないとわからない事ですが、おもに芸人側から 「コントの復権」が欲望されている、という仮説を考えることはできます。

3つのコント番組

「コントの復権」について、3人の芸人を挙げたいと思います。松本人志、志村けん、内村光良です。

彼らは皆、自分のやりたいコント番組をここ5年の間に始めています。(※1) 松本人志は、まさに『M-1』が終わる2010年から2012年にかけて、

『松本人志のコントMHK』 を作りました。 志村けんは、 **『となりのシムラ』**という番組を、2014年の12月に第1回を、そして今年の8月に第2回を、それぞれ手がけました。 内村光良は、この3人の中でもとりわけ熱意を持ち、

『LIFE!〜人生に捧げるコント〜』 を精力的に続けています。初回は2012年9月。そして2013年からは毎年放送されています。(※2)

どれも高い視聴率を叩き出すことはありませんでしたが、これが逆説的に「芸人側がコントをやりたがっている」ことを説明することになっています。

《芸》と《能》の狭間で

とはいえ、なぜ芸人がコントをやりたがっているか。そろそろ妄想性が増してきましたが、お付き合いいただければ幸いです(笑)。

私が考えるに、漫才は自身のキャラクタを打ち出す必要がある(ネタ中とフリートークでキャラが違うことはNG)一方で、コントはそのような必要がない。ということが一つの理由です。

この件を考える度に思い出す話がありまして、「バナナマン設楽「コントの人は二度売れなきゃいけない」 -笑いの飛距離」から引用させていただきますが、

設楽「これでもね、本当ド裏の話で、これ別にポッドキャストで言うことじゃないかもしれないけど、俺ね、コントの人って……よくさ、大阪の人は二度売れなきゃいけないってあるじゃん、
コントの人って二度売れなきゃいけないんだよ 」 児嶋「本当そう思う」 設楽「 漫才師は、そのまんまのキャラクターというか人間性を出せる
でしょ、今のテレビって本質の人間の面白さみたいなところがあるじゃん、だけど、コントの人って演じてる自分を見せて一回名が通ったら、そっからもう一回その個人の、どういう人間かを知らしめなきゃいけないじゃん」

この時点では、「コントで売れることがある」という前提が置かれていますが、現在はこの前提すら崩れ始めています。

「そのまんまのキャラクターというか人間性を出せる」番組がウケる時代に、「演じてる自分を見せ」る番組は減り、その必要は薄れていきました。

これ、私がずっと考えていることで、また拙記事で恐縮ですが「「うるせぇ。バラエティは《芸》でなく《能》の時代なんだ」という想像」から引用すると、

《芸》=「努力して身につけた力」 《能》=「努力せずに身についていった/もともとついている力」 […]
で、何が言いたいかといいますと、序文通り、2015年現在は
「努力せずに身についていった/もともとついている力」=《能》を持っているタレントが求められている だろう、ということです。

上のように考えたとき、《芸》の範囲にあるコントは求められていません。

で、これが苦痛に感じる芸人もいた。とりわけ大御所と呼ばれる上述した3人は、この状況に対してそれぞれ一石を投じました。

『M-1』は2度死ぬ

この後の話は、明日のキングオブコントが終わってから考えることにしましょう。章のタイトルは、ヒントというかメモみたいなもんです。

とりあえず、「漫才」と「コント」の力関係について大きな影響を与えるんじゃ? という話でした。こねくり回し過ぎですかね(笑)。

まずは明日の放送を待ちたいと思います。 藤崎マーケット優勝してくれー!

(※1)どれもNHKで放送されていますが、このことについて、ここでは考えません。「NHKは予算があるんだよ」とか以上に、もっと大きなことが要因にある気がしています。

(※2)先日、シーズン3が終わりました。シーズン4があることを心より願います)


文字通り「新書」だと思って購入したところ、1988年の発行だと知り、驚いた。まだ自分が生まれるギリギリ前に、このような名著が出ていたとは。

[amazonjs asin=“4061488988” locale=“JP” title=“はじめての構造主義 (講談社現代新書)“]本書は、80年代当時流行っていた、そして今でも影響を与えている <構造主義>という思想について、どのように出来上がってきたかを解説したものだ。学術書としては平易に書かれているため、読みやすい。 <構造主義>の産みの親とも言えるレヴィ=ストロースに注目している点が特徴的だ。彼の仕事を追うように進むので、まるで自分が構造主義を考えたかのような気持ちになれる。だから、読んでいて違和感が無い。あまりにストレートなので、むしろ疑いの念が生まれる。

レヴィ=ストロースは人類学・神話学の学者で、自分の興味の範疇に入っている。はずなのだが、実際に思想に触れたことは無かった。同じような人には、強くオススメしたい。

本書を読んでとくに面白かった点は、2つある。 ひとつは、<構造主義>あるいは<構造主義>を形作った思想や学問があらゆる ヨーロッパ文明(マルクス主義、実存主義、機能主義、ユークリッド幾何学、作者の権威、主体の価値、ただひとつの真理) を内部からブチ壊していったこと。この流れが気持ちよく書かれている。

とくに、<構造主義>は「理性」と「真理」に対するヨーロッパの盲目な信頼に大打撃を与えた。何千年もかけて求めた真理に対して、 「唯一の真理は無い」

という答えを出してしまったのである。

ここでの重要な点は、この答えが別の異世界からもたらされたものではないことだ。ヨーロッパ文明が発展を遂げていく中で生まれた自己修正なのである。

もうひとつの面白かったところは、上のような思想が、実は 数学を下地としていた ことだ。 以降では、こっちの話をちょっとまとめておきたいと思う。

数学は絶対でない

長い歴史の中で、さまざまな思想が生まれては消え、更新されていったヨーロッパ文明。しかし、その中で変わらないものがあった。それは 「真理」 だ。

どんな考えも思想も、この「真理」に対するアプローチであることに変わりはない。思想家たちは真理を求めて、さまざまな考えを打ち出したのである。

この「真理」へと辿るレールを整備したのは、数学の 証明 (と論理学)だった。

この手法を使えば、途方も無い時間はかかるかもしれないが、間違いなく一歩ずつ真理へと進められる、とヨーロッパ文明は考えていた。

数学の証明とは、「公理から定理を導き出すこと」だ。詳しく説明すれば、

「論理とかじゃなく、どう考えたって正しいこと」をスタートにして、「論理的に導き出せる答え」を作ろう 、という感じ。

ポッキーの先端(公理)を食べ始めると自然ともう片方の先端(定理)までたどり着く、みたいなイメージだとわかりやすいだろうか。

このとき、ポッキーの先端は証明不可能(ここが重要)であり、証明の必要も無いくらいに正しいのである。

2000年前につくられた「ユークリッド幾何学」がこれにあたる。「直線外の一点を通って、その直線に平行な直線を一本だけ引くことができる(平行線定理)」など、5つの公理が定められた考え方だ。

しかし19世紀に入ると、この考え方に並ぶ考え方が現れる。「非ユークリッド幾何学」である。

非ユークリッド幾何学の誕生は、とてつもない衝撃を生み出すことになった。それは、 非ユークリッド幾何学の公理が、ユークリッド幾何学の公理と異なるからである。 つまり、「論理とかじゃなく、どう考えたって正しいこと」が2つあったのだ。 ポッキーは1本じゃなかったのだ!

これは、数学以外の思想にも大きな影響を与えることになる。今までに導き出していた真理は、すべてある任意の公理から作られているだけなのではないか。別の公理を設定すれば、まったく異なった真理が出てくるのではないか。

<構造主義>では、この公理のことを「制度」と呼び、

「ヨーロッパの知のシステムは、<真理>を手にしていたつもりで、実は制度の上に安住していただけではないか」 (本書p152)との批判を提出した。

ちなみにこのあとの数学は、非ユークリッド幾何学を皮切りに、リーマン幾何学、ロバチェフスキー・ボーヤイの幾何学など様々な公理をもとにした幾何学が生まれ、20世紀にはアインシュタインによるユークリッド幾何学から遠く離れたモデルを利用した理論(相対性理論)まで生まれることになった。


本書の説明はここで終わらず、実はこのあとの 「<構造>は、<遠近法>の発展の末に生まれた」 という仮設がもっともスリリングで面白い。

結論部しか引用しないのでわかりづらいとは思うが、興味があれば読んで損は無いと思う。ぜひ。

レヴィ=ストロースは、主体の思考(ひとりひとりが責任をもつ、理性的で自覚的な思考)の手の届かない彼方に、それを包む、集合的な思考(大勢の人びとをとらえる無自覚な思考)の領域が存在することを示した。それが神話である。神話は、一定の秩序――個々の神話の間の変換関係にともなう<構造>――をもっている。この<構造>は、主体の思考によって直接とらえられないもの、“不可視”のものなのだ。
(橋爪大三郎『初めての構造主義』、講談社現代新書、1988年、p190。)